かつての武家では、男児による家督継承が至上命題とされていました。そのため当主は男児を確保するため、正室のほか、何人も側室を持つことが珍しくなかったようです。
しかし中には必要以上?に子供が生まれてしまうこともありました。
今回は蝦夷地(北海道)を統治していた戦国大名・蠣崎季広(かきざき すえひろ)の子供たちを紹介。
なんと確認できる限りで26人もの子供がいました。
果たして彼は、どのようにしてこれほど多くの子をもうけ、その一族を勢力拡大に生かしたのでしょうか。
蠣崎季広プロフィール

画像 : アイヌ対策にも尽力し、蝦夷地の支配権を確立(イメージ)
蠣崎季広は永正4年(1507年)に蠣崎義広の子として生まれました。
幼名は卯鶴丸(うづるまる/うのつるまる)、元服して通称を彦太郎と名乗ります。
諱(実名。季広)の「季」は、北出羽(秋田県)の大名・安東愛季(あんどう ちかすえ)から与えられたものです。
季広は天文14年(1545年)、父が亡くなったために家督(蠣崎家第4代当主)を継承しました。
天文17年(1548年)には謀叛を起こした従兄弟の蠣崎基広(もとひろ)を討伐し、天文18年(1549年)にはそれまで対立していたアイヌの首長チコモタイン及びハシタインと和睦します。
こうした硬軟あわせ持つ戦略により、道南地方の統治基盤を確立したのです。
当時の蠣崎家は安東愛季に臣従を強いられていましたが、季広は娘たちを奥羽各地の大名や国人らに嫁がせて勢力を拡大、安東家からの独立を図りました。
また嫡男以外の男児らも各家に出仕させ、勢力拡大に役立てています。
しかし子供たちは必ずしも仲がよかったわけではなく、例えば長女(南条広継正室)は長男の蠣崎舜広(としひろ)と次男の明石元広(あかし もとひろ)を毒殺したと伝えられています。
※もちろん彼女は、夫の南条広継(なんじょう ひろつぐ)ともども成敗されています。
また十男の蠣崎仲広(なかひろ)は、天正9年(1581年)に安東家の半ば強制的な要請によって出陣し、討死してしまいました。
やがて天正11年(1583年)に三男の松前慶広(よしひろ)に家督を譲って隠居します。
その慶広は天正18年(1590年)に豊臣秀吉の直臣となったことで、永年の悲願であった安東家からの独立を果たしたのです。
季広の喜びは大変なもので、正式な狄之嶋主(えびすのしまぬし。蝦夷の国主)として認められた慶広を伏し拝んで讃えました。
そして文禄4年(1595年)4月20日に89歳で世を去ったのです。
合計26人!蠣崎季広の子供たち

三男・松前慶広肖像
ここまで蠣崎季広の生涯をたどってきました。
先ほど紹介したとおり、季広は子供たちを勢力拡大の戦力として活用してきたことから、そのために多くの子供をもうけたのかも知れませんね。
そんな季広の子供たちは、確認できる限りで26人。男児と女児がそれぞれ13人ずつでした。
うち、正室の伝妙院(でんみょういん。河野季通女)が生んだのは長男・蠣崎舜広と三男・松前慶広の2人。ほか24人については、生母がわかっていません。
それでは一覧にしてみましょう。
【蠣崎季広の男児13人】
長男:蠣崎舜広/天文8年(1539年)生~永禄4年(1561年)没→毒殺される。
次男:明石元広/天文9年(1540年)生~永禄5年(1562年)没→明石季衡(すえひら)の養子、毒殺される。
三男:松前慶広/天文17年(1548年)生~元和2年(1616年)没→安東家からの独立を果たす。
四男:蠣崎随良(ずいりょう)/生没年不詳→出家して法源寺の住持に。
五男:蠣崎正広(まさひろ)/生没年不詳→子孫は存続(正広系蠣崎家)。
六男:蠣崎長弘(ながひろ)/生没年不詳→史料により定広とも。子孫は存続(長広系蠣崎家)。
七男:蠣崎定広(さだひろ)/生没年不詳→兄・長広と混同されがち?信広とも。但馬守。
八男:蠣崎包広(かねひろ)/生没年不詳→通称は与三郎または典三郎。早逝。
九男:蠣崎吉広(よしひろ)/生年不詳~正保2年(1645年)没→兄・慶広の養子に。子孫は存続(吉広系蠣崎家)。
十男:蠣崎仲広(なかひろ)/永禄4年(1561年)生~天正9年(1581年)没→津軽の合戦で討死。
十一男:蠣崎守広(もりひろ)/永禄7年(1564年)生~寛永12年(1635年)没→子孫は存続(守広系蠣崎家)。
十二男:蠣崎員広(かずひろ)/生没年不詳→景広とも。通称は主水助、子孫は存続(員広系蠣崎家)。
十三男:蠣崎貞広(さだひろ)/生没年不詳→通称は右衛門大夫、兄・正広の養子に。
【蠣崎季広の女児13人】
長女:南条広継正室/生年不詳~永禄5年(1562年)没→舜広と元広を毒殺し、父に成敗される。
四女:小平季遠(こだいら すえとお)室/生没年不詳、小平季長(すえなが)・小平季時(すえとき)の生母か。
十三女:新井田広貞(にいだ ひろさだ)室/生没年不詳
女子:厚谷季貞(あつや すえさだ)室/生没年不詳
女子:安東茂季(あんどう しげすえ。愛季の弟)正室/生没年不詳、嫡男・安東通季(みちすえ)の生母か。
女子:神浦季綱(かみうら すえつな)室/生没年不詳
女子:喜庭季信(きば すえのぶ)室/生没年不詳
女子:佐藤季連(すえつら)室/生没年不詳
女子:下国重季(しもぐに しげすえ)正室/生没年不詳
女子:下国直季(しもぐに なおすえ)室/生没年不詳
女子:下国師季(しもぐに もろすえ)正室/生没年不詳
女子:村上忠儀(むらかみ ただよし)室/生没年不詳
女子:村上直儀(なおよし)室/生没年不詳
一部に読みのかぶっている子がいるように、一族の通字「〜広」のレパートリーを考えるのは大変だったことでしょう。
また女子たちが嫁いだ相手の名前に「〜季」「季〜」が多いのが印象的です。
例外はあるものの、名前が「季〜」の者は安東家中で比較的下位の者、反対に「〜季」となっている者は比較的上位と言えるでしょう。
なぜなら下位の者は、主君の足下すなわち愛「季」を頭上に拝し、上位の者は足下を足下に置いているからです。
幅広い身分の者とネットワークを構築し、勢力基盤を確立したことが、慶広の独立(秀吉直臣)につながったのかも知れません。
終わりに
今回は蝦夷の戦国大名・蠣崎季広と、その子供たちについて紹介してきました。
26人の子供たちを政略の手駒としてフル活用(言い方)し、独立の基盤を築き上げた手腕は、戦国時代でも屈指の才覚と言えるでしょう。
子供たちや子孫たちのエピソードも、改めて紹介していきたいです。
※参考文献:
・海保嶺夫『エゾの歴史』講談社、1996年
・高倉新一郎 編『郷土史事典 北海道』昌平社、1980年
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部

























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