戦国時代

島津義弘の晩年エピソード 「ぼんやり防止はコレが一番?鬼島津と恐れられた戦国武将」

泣く子も黙る鬼島津……そう異名をとったのは、薩摩国(現:鹿児島県西部)の戦国武将・島津義弘(しまづ よしひろ:天文4・1535年生~元和5・1619年没)。

島津義弘の晩年エピソード

薩摩の猛将・島津義弘。Wikipediaより。

若い頃から数々の武勲を立て、木崎原合戦(きざきばる。元亀3・1572年)では日向国(現:宮崎県)から攻めて来た伊東義祐の軍勢3,000を、その1/10の寡兵300で撃退する軍才を発揮。

さらには朝鮮出兵(泗川の合戦。慶長3・1598年)においては約7,000の少数精鋭で、明国と李氏朝鮮国の連合軍およそ20万(※1)の大軍を撃破した「鬼石曼子(※2)」ぶり。
(※1)これは島津側の発表で、朝鮮側の記録では約3万程度ですが、それでも4倍以上の兵力差があります。
(※2)Guǐ shí màn zi(グィ シーマンズ)と読み、「しまづ(島津)」の名は大陸にまで轟いていたようです。

そして天下分け目の関ヶ原合戦(慶長5・1600年)ではもっと少ない1,500で出陣、7万から10万以上とも言われる敵に完全包囲されてしまいますが、これを真正面から突っ切る形で退却。ボロボロになりながら、数十名が生還しています。

島津義弘の晩年エピソード

敵の真正面に向かって「退却」する島津軍。関ヶ原合戦図屏風より。

この伝説的な退却劇「島津の退き口(のきぐち)」に震え上がった敵の大将・徳川家康(とくがわ いえやす)は、敗れた数々の大名家を取りつぶした中、島津家の所領だけは指一本触れ(られ)なかった(※)と言いますから、一体どっちが攻められているのか判らないほどの凄まじさだったのでしょう。
(※)最初は家康も「あれほどの思いをさせられたのだから、このままでは済まさぬ」と思っていたようですが、決死の外交(ハッタリ?)が功を奏して表向きは不問とされたそうです。

晩年の鬼島津、ぼんやり対策に家臣たちが……

……そんな「いつも逆風、常に逆境」「生き延びたくば、泣こよかひっ飛べ(※)」を地で行く修羅場をくぐり抜けて来た義弘ですが、その晩年は戦さもなくなって、あまりに平和(?)過ぎたのか、ぼんやりしていることが多くなったと言います。
(※)薩摩弁で「ぐずぐず迷うな(泣くな)、男なら一思いに突っ込め(ひっ飛べ)」の意。

「あぁ……矢も弾も飛んで来ない……ヒマじゃ……退屈すぎる……戦さ場が懐かしいのぉ……またみんなで、敵の大軍に突っ込みたいのぉ……」

島津義弘の晩年エピソード

島津義弘公の輝ける雄姿。Wikipediaより(写真:日置市役所総務課秘書広報係)。

そりゃアンタ、生きているからそんな贅沢が言えるのであって、矢や弾に当たって、あるいは槍に突かれ、刀に斬られ死んで行った者たちにすれば「せっかく我らがお守りした命を粗末にするんじゃない!」くらい言ってやりたいところでしょう。

しかしまぁ、そうは言っても人間一度は死ぬのだし、どうせ死ぬなら長い永い余生をぼんやりと食いつぶすより、血と気魄を最後の一滴まで絞り尽くして闘い果てる方がいい、という価値観も解らなくはありません。

「まったく、ご隠居様もお可哀想に……とは言え、無用な戦さはしとう(というか、出来るわけ)ないし……」

かつての鬼島津ぶりを知っているだけに、義弘のぼんやり加減を見かねた家臣たちは、屋敷の中で法螺貝(ほらがい)を吹いてみることにしました。

法螺貝を吹いてみた(イメージ)。

ブォォ、ブォォォ~……「はっ!」

法螺貝は戦さの合図。その響きを耳にした義弘は、もう傘寿(80歳)を過ぎた老人とは思えぬ勢いですっくと立ちあがり、声を限りに呼ばわります。

「者ども、戦さじゃ!早う支度せぇ……!」

もちろん戦さなどないのですが、法螺貝を聞く度に活き活きしていたそうで、家臣たちは折に触れて法螺貝を吹いてあげたそうです。優しいですね(そして、よほど尊敬していたのでしょう)。

終わりに

時は流れて平成19年(2007年)、高齢者の介護施設で入所男性に若い頃(兵役時代)に使っていた三八式歩兵銃のモデルガンを持たせてみたところ、それまで座りきりだった男性が自分で立って歩き出すというニュースが報道されていました。

軍人だった誇りが、背筋を伸ばしてくれたのか(イメージ)。

これは回想法などと呼ばれる認知リハビリの一種で、かつて骨身に叩きこまれた軍隊経験を思い出して脳が活性化した結果と考えられます。

私事で恐縮ながら、筆者も海上自衛官だった経験があり、いつか年を取ってぼんやりしてしまったら、64小銃(64式7.62mm小銃。モデルガン)など持たせてもらえると、少しは背筋が伸びて、意識もハッキリするかも知れませんね。

戦国時代でも近現代でも、それこそ有史以来、およそ軍隊というものはその目的からしてロクでもない(※)もので、身をおいていると大抵ロクでもないことの方が多いものではありますが、必死で駆けずり這いずりしていた分だけ、濃密な時間だったとも言えます。
(※)国家の平和と独立を守る上で軍隊や自衛隊の存在は現実的に必要不可欠ですが、出来ることなら「そもそも(軍隊・自衛隊の主目的である)戦争なんてない方がいいよね」という意味であり、軍隊や自衛隊を否定する意味ではありません。念のため。

駆けずれ這いずれ、祖国(くに)のため(イメージ)。

きっと義弘も往年を思い出し、また家臣たちの優しさを噛みしめながら、穏やかな晩年を過ごしたことでしょう。そう願わずにはいられません。

※参考文献:
三木靖『島津義弘のすべて』新人物往来社、1986年7月
山本博文『島津義弘の賭け』中央公論新社、2001年10月
キッズトリビア倶楽部『1話3分「カッコいい」を考える こども戦国武将譚』えほんの社、2020年12月

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角田晶生(つのだ あきお)

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