両軍合わせて27万もの軍勢を動員し、11年にも及んだ「応仁の乱」。
どの勢力が戦い、勝者は誰だったのか?
これが、応仁の乱を理解するための大きな壁となっている。なぜなら、主要人物だけでも数十人になり、決定的な勝者はいなかったからだ。
2017年は1467年に戦いが勃発から550年の節目を迎える。では、どのような戦いだったのか見てみよう。
応仁の乱 ・勃発
※応仁の乱
そもそも、なぜ「応仁の戦い」ではなく、「乱」なのか。
乱は権力への反乱を意味すると同時に、いくつかの戦いが続く「戦乱」を示す場合もある。応仁の乱は、京を中心に多数の戦いが各地で繰り広げられた戦乱である。その発端となったのは「上御霊社の戦い」であった。
8代将軍・足利義政がすでに出家していた弟の義視(よしみ)を後継者に指名して還俗させたところ、直後に正室の日野富子が男児を出産した。富子は息子の義尚を次期将軍とするために山名宗全を頼る。一方で義視(よしみ)には、幕政の中枢で権力を持つ細川勝元の後見があった。
山名宗全は、武闘派として有名な武将であり、応仁の乱が勃発したときには64歳でありながら攻撃の指揮を執るほどである。直情型で政治的な駆け引きよりも実力で勝負する直情型。人に頼られることも多かったが、反面、自信家で敵も作りやすい性格だったという。
一方、細川勝元は、文治派で和歌や鷹狩り、絵画鑑賞などを嗜む多趣味な人物であり、公家にも負けない教養を身に着けていた。宗全と対照的に行動よりも政治工作を得意としていたという。
この2人の有力大名が後ろ盾となり、争いは全国に広がっていたのである。
山名宗全と細川勝元
※細川勝元
しかし、話はそう簡単ではない。
まず、宗全と勝元は最初から敵対していたわけではなかった。
勝元は政敵だった畠山持国に対抗するため、宗全の養女を妻にめとることで同盟関係を強化している。当初は細川と山名で畠山氏に対抗する勢力をなしていたのだ。しかし、次第に力ずくとも言えるやり方で権力の階段を上ってゆく宗全は、勝元にとって目障りな存在になってゆく。やがて、両者が決裂することとなったのである。
資料を紐解けばわかるが、応仁の乱において将軍の後継者争いというのは家督争いの頂点であり、実際には同時期に各地で後継者争いが多発している。そのなかで注目すべきなのは「畠山氏」の動きだ。
足利義視方の大名である「畠山政長」は、細川勝元の支持を得ていた。一方で義尚方の大名「畠山義就(はたけやまよしひろ)」は、畠山氏家臣が後継者に推す甥の政長と内紛を起こす。将軍・義政の命で一時は失脚するも、山名宗全の仲介により上洛を果たしていた。
幕府に復帰した義就は、政長に対して屋敷を明け渡すように要求したのである。これに怒った政長は屋敷に火を放ち、京の北東にある上御霊社に布陣した。
内裏を巻き込む後継者争い
※山名宗全。『本朝百将伝』より
政長は屋敷に放火すると自宅から約2kmほど北上し、相国寺に隣接する上御霊社(御霊神社)に3000騎の軍勢を率いて陣を敷いた。家臣の遊佐長直らと戦闘の準備を始めたのは1月18日午前4時のことである。
同日14時には後土御門天皇と後花園上皇が相国寺の南にあった内裏を脱出し、相国寺の西にある花の御所に避難した。その後、15時には政長の動きを察知した義就が、3000騎を率いて上御霊社に向かう。このとき、義就には山名宗全の実子とも孫ともいわれる山名政豊が加勢しており、さらに越前の守護大名である朝倉孝景も参戦。この3つの軍勢で上御霊社を北、西、南の三方から取り囲んだ。東は近くに賀茂川が流れているため、上御霊社は周囲を封鎖された状況となった。
畠山義就、挙兵す
※畠山義就。『続英雄百人一首』より
16時、上御霊社の南と西には堀があるために政長勢は攻めあぐねる状況であったが、北側に陣取っていた朝倉勢が攻撃を開始する。戦いは夜を徹して断続的に行われた。その結果、戦いは終始義就が有利であった。翌19日の早朝4時には、攻撃に耐えきれなくなった政長が社殿に火を放って逃亡。山名・畠山勢の陣を突破し、細川勝元低に逃げ込んだ。
ここで勝元が政長に援軍を出さなかったのは、足利義政も義就を支持しており、勝元に加勢することを禁じていたからだった。
この戦いにおいての死者は数十人規模であったが、これを機に宗全と勝元の対立は武力闘争へと発展してゆくことになる。
これが「上御霊社の戦い」である。
日野富子の虚像
※室町幕府8代将軍・足利義政
山名宗全と細川勝元の確執が深まれば出自や育ちの差が裏目に出る。宗全は叩き上げの武将である。実力者ではあるが、役職や細川家との家系の差は明らかだった。本来は大将として並べられることのない二人ではあったが、宗全にしてみれば機を見て実力通りの働きをしたいという野望は持っていたに違いない。
もともとは日野富子が応仁の乱のきっかけを作ったとも言われている。そのため「悪女」というイメージが強い。通説では、冒頭に書いたように長らく子供に恵まれなかった富子は、ようやく生まれた息子の義尚を将軍の後継者にしようとしたために、すでに弟の義視を後継者指名していた夫の足利義政との間に確執が生れたとされている。
しかし、富子と義政との関係がこじれたという資料は発見されていない。そのため、近年では義視の将軍就任は、義尚が将軍職を継げるまでの中継ぎという立場で足利家の認識は一致していたと見られている。
このように、応仁の乱のキーパーソンの「一部」を追いかけるだけでも各々の思惑が絡み合い、さらには再検証が必要な出来事も多く残っているのだ。
最後に
応仁の乱の全期間を通して、数々の家督相続とそれを理由にした「上御霊社の戦い」のような代理戦争は終息に向かうどころか、泥沼の権力闘争へと発展したのである。さらには大名、管令家、大名たちが機を見ては立場を変えていったことも長期化の原因となった。
いわば、ポリシーなき権力争いであったのだ。
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