16世紀半ばから17世紀半ばは「キリシタンの世紀」と呼ばれるが、同時にスペインやポルトガルなどとの南蛮貿易が盛んだった時期でもある。
交易に従事する西洋人が中国産の生糸や絹織物、薬、鉛などの鉱物、硝石などをもたらした。その見返りとして日本の銀や銅、刀剣などが輸出されたが、日本人奴隷も国外へ運ばれていた。
この時代は「商人の世紀」でもあったのだ。
朱印船貿易の展開
【※朱印船】
この時代は様々な商人が来訪したが、その先駆け的存在ともいえるのが、天文21年(1552年)に来日したポルトガル商人のルイス・デ・アルメイダである。
彼は医師免許も持っており、豊後に日本初の病院を建てた。また、ウィリアム・アダムスとともに日本へやってきたオランダ人航海士のヤン・ヨーステンは、長崎と平戸にオランダ商館が開設されると、日本とオランダの貿易の発展に貢献している。ちなみに東京駅の東側にあたる「八重洲(やえす)」という地名は、ヤン・ヨーステンの屋敷があったのが由来とされている。
幕府は禁教令を出してキリシタンを弾圧したものの、朱印船の往来は自由に認めていた。ところが宣教師を乗せて航行した朱印船が見つかる「平山常陳(じょうちん)事件」が発生し、不信感を抱いた幕府は朱印船の渡航禁止、日本人の海外への往来を禁止するなどして、鎖国体制を徐々に確立させてゆく。
ある商人の肖像
【※平戸のオランダ商館(17世紀の版画)】
17世紀に入ると、スペインやポルトガルに加えてイギリスやオランダといった新興国も日本に近づき、貿易を開始する。なかでもオランダは貿易と布教をしっかりと分別していたことから、次第に対日貿易の市場を独占するようになった。
その後、鎖国体制を確立させるため、幕府はオランダ商館を平戸から長崎の出島に移すよう命じる。商館長のフランソワ・カロンはこれに応じ、以後は出島が日蘭貿易の拠点となった。カロンは元和5年(1619年)、料理人見習いとして平戸のオランダ商館に着任する。日本人女性と結婚したこともあり、カロンは流暢な日本語を身につけていた。この語学力が重宝され、カロンは商館助手、館長代理と順調に出世を重ねていく。そして、寛永16年(1639年)、ついに商館長まで上り詰めた人物である。
海外に伝わる日本の国土
カロンは日本の政治や商業、生活、文化などを紹介した「日本大王国志」を正保5年/慶安元年(1648年)に刊行したが、これがヨーロッパ各地で広く読まれ、鎖国体制下の日本を知る貴重な資料となった。そこには、日本の国土に関する記述がある。
『我々に多く知られている日本国は島嶼(とうしょ・大小さまざまな島)であろう。この国の大部分はまだその国民によって十分探検されないから、判然とはいえぬ。日本人は数回探検を試み、深くかつ遠く進入したが、いまだかつてその終着を発見したものはなく、またそれに関する情報を得た者なく、大抵食糧の欠乏により帰還を余儀なくされたため、その報告は不十分にして、皇帝(将軍)はついに向後の探検を中止するに至った』
当時の日本人は、日本が島嶼であることが断定できなかった。津軽の北にある蝦夷地がどこまで続いているか分からなかったからだ。日本が島嶼であることが確認されるのは、19世紀の伊能忠敬の時代に入ってからであった。
宣教師が伝えた日本
【※フランシスコ・ザビエル】
フランシスコ・ザビエルは恩師のイグナチオに宛てた手紙の中で、日本人が他の国々の人よりも優れていることを述べている。
「日本へ宣教師を派遣する主な動機のひとつは、日本の国民が今この地域にいる他のどの国の国民より明らかに優秀だからです。ポルトガルの王に支配されず、自らの法に従って生きていて、キリスト教が強く根を張り、その根をそこまでしっかり保存している国は他にないと思います(「ザビエルの見た日本より」)」
ザビエルはイエズス会の同僚などに「日本はとても優れているので、宣教師をどんどん派遣してほしい」という手紙を何通も送っている。
それほど日本人の気質に魅了されていたのかもしれない。昔と今では物質的には大きく変貌を遂げているが、日本人の気質はそれほど変化がない。カロンのような商人、ザビエルのような宣教師を問わず、日本に留まっていたのは、そうした日本人の独立心と勤勉さが影響しているようだ。
日本人の好奇心
例えば、ザビエルは日本人が好奇心旺盛であることを述べているが、これは現代の日本人にも該当する気質である。
江戸時代の鎖国で日本の文化や技術は独自の発展を強いられたが、明治時代以降に西洋文化を積極的に吸収し、日本を西洋列強に迫る国まで至らしめている。ザビエルは、日本人の根底に流れるそうした熱意に感化され、日本での布教に情熱を注いでいたのである。
最後に
鎖国以前の16世紀末から17世紀初頭にかけて、多くの日本人が朱印船に乗って東南アジア各地に進出して各地で日本人町を形成していた。同様にインドから東南アジアを経て日本へと来航する外国人も各国の気質を知っていたはずだ。そのなかで商人は取引相手としての日本人を、宣教師は布教する相手としての日本人を冷静に分析していたようである。
関連記事:外国人
「外国人から見た豊臣秀吉について調べてみた」
この記事へのコメントはありません。