貞女おかんの悲話が、九戸(くのへ)城(岩手県二戸市)での豊臣軍の無差別虐殺・阿鼻叫喚の地獄へと結びつく。
平成7年(1995年)に九戸城二の丸跡から頭部のない十数体の深傷を負った女性を含む成人人骨が出土した。刀によって切断された上腕骨など、何ヵ所も刀創が残り、首を刎ねただけでなく、屍を切り刻んだ「撫で斬り」の実態が明らかになった。
この天正19年(1591年)に起きた戦いを「九戸政実(まさざね)の乱」という。豊臣秀吉が全国を統一した最後の戦いとして名高いが、優秀の美を飾ったとは言い難い、むごい戦いであった。
奥州再仕置
前年、小田原の北条氏を滅ぼした後、秀吉は会津に至り、奥州仕置をし、自らの元に参陣しなかった武将の所領を没収し、臣下の礼を取ったものを従属させた。
北東北の東半分を領有する南部信直(なんぶのぶなお)は、小田原に駆け付け秀吉から所領を安堵された。だが、南部氏には本家相続を巡る不満が渦巻いており、九戸政実が南部本家を継いだ信直に反旗を翻すことになる。
だが、時期が遅すぎた。奥州仕置によって秀吉に従属した南部氏への反抗は、豊臣政権への挑戦と秀吉はみた。そこで奥州再仕置と称して、豊臣秀次を総大将に徳川家康、伊達正宗、上杉景勝など、名だたる戦国武将を総動員して6万の軍勢を派遣した。
容赦なき豊臣軍
軍勢は領地を奪われ、一揆を起こした土豪たちを制圧しながら9月1日に九戸城に達し、馬淵(まべち)川など3方を川に囲まれた要害の九戸城を包囲した。一方、九戸城の籠城者は5,000人である。
数に頼んで一気に踏みにじろうとする豊臣軍に、籠城軍は天嶮を利して防戦し、攻め手の死傷者は増えるばかりだった。そこで、攻撃大将の蒲生氏郷(がもううじさと)は、九戸氏の菩提寺住職を介して投降を呼びかけた。降伏すれば籠城者の命を助け、所領も与えると約束した。だが、豊臣軍はこれを反故にしてしまう。
浅野長政の長束正家(なつかまさいえ)への手紙に「政実は髪を剃り降伏したので、妻子とともに総大将秀次のもとに連行し、悪徒人どもの首をことごとく刎ねた。頸数百五十余を進上した」とある。
おかんの運命
また『九戸記』には次のような記載がある。
「九戸一族、郎従、与力の者ども、ことごとく二の丸へ追い込み、四方より火をかける。あまつさえ秋風激しく猛火焔をうづまき、八方へ散乱して燃え上がる。火を逃れんと出る者は殺害された。刃を恐れ逃げ行くものは煙にむせて死に、老若男女の叫びは響いて目も当てられぬ次第なり」
籠城者は女も子供もすべて殺された。だが事前に脱出して生き残った娘がいた。それがおかんである。おかんは政実の一族である畠山重勝(はたけやましげかつ)の娘だった。落城が秒読み段階に入って、死しかないと悟った重勝は、従僕の三平に娘・おかんと妻を託し、落ち延びさせて、自らは城と運命を共にした。
三平は秋田に逃げ、母娘は身分を隠し、3人で息をひそめて暮らした。着の身着のままの脱出だっただけに所持金も少なく、金に換える着物もすぐになくなって、貧しい生活に陥る。おかんは母とともに生きてゆくために従僕の三平を頼るしかなく、身分違いの結婚をした。
束の間の幸せ
南部本家は不来方(こずかた)の地を新たな藩都と定め、慶長2年(1597年)から盛岡城の築城に取り掛かった。
生きる糧を求めて三平・おかん夫婦は母を伴い、不来方に来て、三平は人夫として石垣積みの現場で働く。正直者の夫との間には重太郎が生れて一家にはささやかな幸せが訪れた。だがそれは一瞬に霧散することになる。重太郎3歳、母71歳のときである。三平が石の下敷きになり、下半身不随になってしまったのだ。生活のすべてがおかんにのしかかる。
おかんはもともと身分のある良家の娘である。築城現場の長屋には似つかわしくないほどの気品があったが、彼女は懸命に働いた。しかし、夫が大怪我をすると、人夫頭の高瀬軍太がおかんに目を付け、露骨におかんを誘うようになった。三平の上司だけに振りきれず、現場で働くおかんの立場からも無下にはできない。
執拗に言い寄る軍太に観念したおかんは「夫を殺してくれたなら、あなたの妻になります」といい、桂清水観音に三平がお参りに行くので、その途中で殺してほしいと頼んだ。
軍太の涙
早朝、桂清水観音に向かう馬があった。軍太は鉄砲を片手に待ち受ける。馬上の男は見慣れた身なりをしていた。三平に違いないと銃を構え、これでおかんと添い遂げられると、軍太は踊る心で引き金を引く。銃声と硝煙。その向こうに落馬する人影が見えた。
だが、走り寄った軍太が見たものは、三平の服を着ているが、美しい人妻のおかんであった。軍太の想い人は胸から血を流し、既にこと切れていた。夫への貞操を貫き、不義密通を許さない、これほど強烈な拒否があるだろうか。己の愚かさに気付いた軍太はおかんを抱きしめ「許してくれ」と男泣きしたという。
盛岡城の北700mにある大泉寺におかんの墓がある。享年28。その後、軍太は出家し、托鉢で得た金、米、野菜を三平一家に届け続けた。
やがて、大泉寺に入って浄覚と称して寺番となり、おかんの菩提を弔う日々を送ったのである。
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