スコットランドの女王メアリ・ステュアートは、古くから戯曲や小説の題材にされているだけでなく、21世紀に入ってからもドラマや映画の主人公として描かれている。
イングランド女王エリザベス1世と女の戦いを繰り広げ、悲劇的な最期を遂げたというイメージが強い彼女だが、その実像はいかなるものだったのだろうか。
生後間もなくして即位
現在のイギリスの正式名称は「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」であり、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの国で構成されているが、メアリ・ステュアートが生きた時代のイングランドとスコットランドは異なる国であった。両国の政治や王位継承問題、そして宗教が、彼女の人生を波乱に満ちたものにしたのである。
メアリ・ステュアートは1542年12月8日に、スコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族のメアリー・オブ・ギーズの長女として誕生した。彼女には2人の兄がいたが、いずれも幼くして死亡していたため、ジェームズ5世は男児を望んでいた。
しかし、産まれたのが女児であると知ったジェームズ5世は「アラス」と呟いたと言う。「a lass」は若い女性や少女を意味するスコットランドの方言であり、「alas」は「ああ、悲しい!」という悲嘆の表現である。
メアリ・ステュアートの生後間もない1542年12月14日に、病床にあったジェームズ5世は他界し、赤子である彼女が即位した。
フランス王太子との結婚
王族や貴族にとって、結婚は重要な問題である。メアリ・ステュアートの父ジェームズ5世はイングランド王ヘンリー7世の孫であり、ヘンリー8世の従弟にあたる。その娘であるメアリ・ステュアートは、スコットランドの女王であると同時に、イングランド王家の血も引いていた。
イングランド王ヘンリー8世は息子のエドワードとメアリ・ステュアートの結婚を目論み、1544年にスコットランドへの武力介入を行って幼い2人を婚約させた。
1547年、イングランドではヘンリー8世が死亡し、皇太子がエドワード6世として新たな王となったが、メアリ・ステュアートとの婚約は破棄された。
イングランド軍が「ピンキーの戦い」と呼ばれるスコットランド侵攻を行ったため、当時のスコットランドの宮廷における対イングランド感情が悪化した。メアリ・ステュアートは身の安全のためにフランスに逃れ、母の実家であるギーズ公家でフランス式の教育を受ける。
1558年に彼女はフランス国王アンリ2世の王太子フランソワと結婚した。
スコットランドへの帰国と再婚
アンリ2世は、父ヘンリー8世によって庶子扱いされたエリザベス1世の即位は無効であり、息子の妻であるメアリ・ステュアートこそがイングランドの正当な王位継承者であると主張した。
アンリ2世の死後、王太子がフランソワ2世として即位し、メアリはスコットランドの女王にしてフランス王妃となった。
しかし、フランソワ2世は1560年に16歳で病死し、メアリは18歳で未亡人となる。2人の間に子は無く、メアリは1561年にスコットランドに帰国した。
フランスの宮廷で華やかな生活を送っていたメアリ・ステュアートにとって、スコットランドの宮廷は魅力に乏しい場所であった。彼女はカトリックを信仰していたが、当時スコットランドでは宗教改革の動きが進んでいた。メアリ・ステュアートはスコットランドの宗教問題に寛容な姿勢を示した。
王家のステュワート(Stewart)という綴りをフランス風のステュアート(Stuart)に変えたのは、彼女だと伝えられている。
1565年7月にメアリ・ステュアートは再婚した。ヨーロッパの歴史において、配偶者と離別した王族や貴族が再婚するのは珍しいことではない。再婚相手を選ぶにあたり、メアリ・ステュアートはエリザベス1世に相談の手紙を書き送っている。
メアリ・ステュアートが再婚相手に選んだダーンリー卿ヘンリー・ステュアートは、スコットランド王家に連なる人物であると同時に、イングランド国王ヘンリー7世の曾孫にあたる。メアリ・ステュアートとダーンリー卿は、ともにヘンリー8世の姉マーガレットを祖母に持つ従姉弟同士でもあった。
周囲の反対を押し切り、2人は出会って約4ヶ月で結婚した。
ダーンリー卿の死と再々婚
メアリ・ステュアートは、ダーンリー卿に従来スコットランドの直系王族にのみ与えられてきたロス伯とオールバニ公という爵位に加えて、スコットランド王の地位までも与え、貴族たちの反発を招いた。
ダーンリー卿はカトリックを信仰していたが、野心家で嫉妬深く、王としての実権を要求した。また、結婚後間もなく浮気をしたためにメアリ・ステュアートとの仲が冷え、1565年12月には王の地位を剥奪された。
ダーンリー卿と再婚する前から、メアリ・ステュアートはダヴィッド・リッチオというイタリア出身の秘書官を雇っていた。彼はカトリックを信仰する音楽家で、メアリ・ステュアートとダーンリー卿の結婚にも賛成した人物である。
ダーンリー卿は、メアリ・ステュアートがダヴィッド・リッチオと不倫関係にあると考え、ダヴィッド・リッチオが権勢を得ることに反発した貴族たちと手を結んだ。
1566年3月9日に、エディンバラのホリルード宮殿に賊が侵入し、ダヴィッド・リッチオはメアリ・ステュアートの目の前で殺害された。彼女は宮殿に軟禁されたが、近衛隊長アースキンやボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンの協力で脱走を果たした。
ピストルを突き付けられ、寵臣を殺害されたショックでメアリ・ステュアートは流産の危機に陥ったが、この年の6月19日にエディンバラ城で男児を出産した。
だがダーンリー卿は息子の誕生を喜ばなかったばかりか、ダヴィッド・リッチオとの息子ではないかと疑った。メアリ・ステュアートの息子はジェームズと名付けられたが、ソロモン(旧約聖書に登場するダビデの息子。ダビデのヨーロッパ形がダヴィッド)と呼ぶ人間が存在した。
メアリ・ステュアートとダーンリー卿の夫婦仲は修復不可能だったが、カトリックを信仰していたために離婚はできなかった。
1567年2月10日未明にカーク・オ・フィールド教会(現在のエディンバラ大学構内)で爆発が起こり、ダーンリー卿の遺体が発見された。当時の人々の間では、ダーンリー卿殺害の首謀者は妻のメアリ・ステュアートで、重臣のボスウェル伯が実行犯であるという噂が流れたが、真相は現在も不明である。
ボスウェル伯は貴族の署名を集め、メアリ・ステュアートに結婚を迫った。プロテスタントであったボスウェル伯は妻と離婚し、1567年5月15日にホリルード宮殿でメアリ・ステュアートとの結婚式を挙げた。
だが、ダーンリー卿殺害に関わったと疑われていた2人の結婚は猛反対を受けた。反ボスウェル派の貴族たちは「ボスウェル伯から女王を救出する」という名目で軍を起こした。
メアリ・ステュアートとボスウェルは反乱軍との戦いに敗れ、彼女はロッホ・リーヴン城に移された。1567年7月24日に彼女は女王の地位を追われ、1歳の息子がスコットランド王ジェームズ6世として即位した。
イングランド亡命と処刑
1568年5月にメアリ・ステュアートはロッホ・リーヴン城を脱出して兵を起こしたが鎮圧された。
彼女はイングランドに逃れ、エリザベス1世に保護を求めた。メアリ・ステュアートはスコットランドに送り返せば処刑される身だが、エリザベス1世にとっては親族でもある。
メアリ・ステュアートはイングランド国内を転々として、軟禁とはかけ離れた自由な後半生を過ごした。
エリザベス1世の保護を受けながらも、メアリ・ステュアートは自分こそがイングランドの正当な王位継承者であるという主張を曲げず、エリザベス1世をイングランドの王位から引きずりおろそうとする陰謀に加担した。エリザベス1世の暗殺を計画した「バビントン事件」に、メアリ・ステュアートが関わったという証拠が見つかったことから、彼女には死刑判決が下される。
1587年2月8日に、メアリ・ステュアートはフォザリンゲイ城で処刑され、44歳の生涯を終えた。
まとめ
生涯独身を貫いたエリザベス1世は次のイングランド国王に選んだのは、メアリ・ステュアートの息子ジェームズであった。
スコットランド国王ジェームズ6世は、イングランド国王ジェームズ1世として即位し、スコットランドとイングランドは1人の人間を共通の君主に持つ同君連合となり、1707年にグレートブリテン王国が成立した。
2度も夫に先立たれたメアリ・ステュアートの人生は波乱に満ちてはいたが、彼女の血は現在のイギリス王室に続いている。
子孫を王座に就けることに成功した彼女は、長い目で見れば歴史の勝利者と言えるかもしれない。
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