西洋史

皇帝ネロ は本当に暴君だったのか?【ローマ帝国】

皇帝ネロ

ローマ帝国の第5代皇帝にして、「暴君」の代名詞としても歴史に名が残るネロ・クラウディウス

身内をその手にかけ、キリスト教を迫害したことなどで、2000年後の現在でも悪評だけが有名になっている。

では、本当にネロはただの暴君だったのか?なぜ、そのような人間が皇帝になれたのか?

ネロ・クラウディウスの素顔に迫ってみた。

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ローマ皇帝への道

ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス( 37年12月15日 – 68年6月9日)は、皇族の家系に生まれた(以下ネロ)ネロの誕生からわずか3年で父は死去。

その後、母のアグリッピナは第4代ローマ皇帝クラウディウスの皇妃の座に納まった。このことにより、ネロも皇位継承者の1人となったのだ。


※ネロの頭像

義父である皇帝クラウディウスの娘、オクタヴィアとの婚姻も成立。クラウディウスには、ブリタンニクスという実子(ネロの義弟)がいたが、後継者にはネロを指名した。
皇帝への道を後押しするかのように、54年にクラウディウスが死ぬと(一説には母アクリッピナによる毒殺)、ネロが18歳で皇帝に即位することになる。

皇帝ネロ

ネロが即位すると優秀な人材が彼を補佐することになる。彼の家庭教師でもあった哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカや、近衛長官であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの二人は、たちまちネロを名君へと成長させた。


※セネカとネロ(左)コルドバの像

しかし、母アグリッピナの干渉が、徐々にネロにとっての重圧となる。

なにかにつけ、皇帝と同等の振る舞いを見せ、周囲もそれに翻弄されるようになった。もともと、前后妃に代ってその座に納まったほどの計略家である。さらにはネロ自身が妻オクタウィアには不満で、解放奴隷のサビナを寵愛していたために、アグリッピナに対して強く出れない。

この頃より、ネロとアグリッピナは対立の構図を強めていった。

ネロを見限ったアグリッピナは、ネロの義弟で皇位継承権を行使できる立場に近いブリタンニクスに接近する。しかし、ブリタンニクスは成人の儀式目前で55年に急死した。一説によれば、ネロが毒殺したという。

そしてネロが妻オクタウィアと離縁し、ポッパエア・サビナと結婚しようとするとアグリッピナとまたもや対立することとなり、59年にはついにネロは母アグリッピナを殺害。さらに、ネロがサビナと結婚すると、前妻オクタウィアは不倫の罪で自殺させられた。

こうしたネロの暴走に歯止めをかけようと、65年に元老院議員ガイウス・カルプルニウス・ピソを皇帝に擁立する計画が発覚し、ピソに連座してセネカが自殺を命ぜられている。セネカはネロを名君に育てた人物であるにもかかわらずにだ。

こうした一連の行動が、後世においてネロを暴君と評価させる原因である。

キリスト教への迫害

西暦64年に首都ローマで大火災が起きた。
7月9日の夜間、ローマの中心部に近い商店街通りから起こった火の手が、風にあおられて瞬く間に大火事となる。これにより、ローマ市14区のうち3分の2にあたる10区を焼いた。


※ローマ大火

この時代、首都ローマは100万人都市であったが建築物の多くが木造で密集していたことなどから、大火災は何度も起きている。江戸の街がよく大火に見舞われたのと同じ理由だ。しかし、このときの火災は最大規模のものだった。

その規模の大きさにから「ネロは新しく都を造るために放火した」という噂まで流れたという。そうした風評被害への見せしめなのか、ネロはキリスト教徒を大火の犯人として反ローマと放火の罪で処刑した。

これが、ローマ帝国による最初のキリスト教徒弾圧とされ、キリスト教世界におけるネロのイメージに大きな影響を与えた。こうなるともう歯止めが利かなくなる。

ネロは「火葬で肉体を損なうと天国へ行けない」と考えるキリスト教徒を火刑に処したため、また、ネロの治世にキリスト教の聖人パウロが殉教した伝説があるため、暴君、反キリストの代名詞となった。

2000年前の記録

現代に生きる我々は、2000年ほど前に記された記録と、伝承でしかネロの生涯を知るすべがない。


※1540年にフランスで出版された『皇帝伝』の1ページ

そもそも、最初にネロの伝記を書いたスエトニウス(政治家、歴史家であり著書「皇帝伝」のなかでネロのことを記す)とタキトゥス(ネロを糾弾した政治家、歴史家)は、ともに元老院とのつながりが強く、ネロの治世を批判的に記したとみられる。

ローマの元老院が政治的理由から、ネロの死後にその名声をおとしめようとしたのはまず間違いない。それというのも、68年に皇帝の支持率低下を機にネロと対立していた元老院は、ネロを「国家の敵」として認定したためである。ネロはローマ郊外へ逃亡するが、逃げ切れずに自死したという。

さらにキリスト教文化圏においてはネロの評価はいまだに低い。悪魔扱いであり、映画「オーメン(1976年)」で登場する「666」という数字もネロのことを指すとされる。

当時の記述を調べると、なにかにつけネロのネガティブな部分だけがクローズアップされている。

しかし、約2000年前といえばキリスト誕生から半世紀ほどしかたっていないのだ。そのキリストについても、記述や伝承には真偽不明なものが多い。政敵の多かったネロのことであるから、多くの資料は信用できない可能性もある。

暴君の素顔


※死後に神格化したネロの美術品

では、ここで冷静になってネロが行ったとされる「暴君ぶり」を検証してみよう。
まずは、身内や側近の殺害についてだ。

義弟ブリタンニクスと前妻オクタウィアについては確証がない。そういわれているだけだ。母アグリッピナについては、政治に過干渉するような存在であり、計略家であったとされるため、殺害したのは苦肉の策だったと考えられる。ローマ帝国に限らず、障害となる身内を排除することは過去に幾度も行われている。

かつてネロの家庭教師であり、即位後はその右腕として活躍したセネカへ自殺を命じたことは、セネカがネロを皇帝の座から引き摺り下ろそうとしたためだ。これも皇帝の立場では排除するしかあるまい。

また、ローマの大火災の犯人がネロであるという噂だが、同時に火災の際にネロが陣頭指揮した被災者の救済やそのための迅速な政策実行、ローマ市の再建は市民に受けがよかった。

ネロに批判的だったタキトゥスも、「人間の知恵の限りをつくした有効な施策であった」と記している。炎上する都を眺めながらバイオリンを奏でるネロのイメージとはまるで真逆の証言だ。

キリスト教の迫害については事実のようだが、これも近年の研究により「大火災の犯人がキリスト教徒であった可能性がある」というのが分かっている。さらに、当時のローマ帝国内では、ローマ伝統の多神教を否定するキリスト教を嫌悪している者が圧倒的に多数派であった。

ネロを糾弾したタキトゥスをはじめとする後世のローマの歴史家達も、このことについてはむしろネロに近い立場を取った。

これらの検証から導き出される答えはひとつ。

ネロは皇帝として行うべきことを行っただけであり、見るものによっては暴君に見えたのではあるまいか?


※ネロによって火刑にされかかっているキリスト教徒たち

最後に

ネロにとって最大の障害は元老院(外交・財政などの決定権を掌握する実質的な統治機関)であった。

皇帝よりも権力は弱いが、そこでは様々な人物がそれぞれの思惑を張り巡らせていた。その影響力は、皇帝といえども無視できない。

そのようなしがらみの中で、自分が行わなければいけないことに対し、率直に取り組んだのが皇帝ネロの素顔なのかも知れない。

ネロが暴君だったと確信できる資料は今でも存在しない。

 

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