西洋史

アウグストゥスはなぜ初代ローマ皇帝になれたのか調べてみた

共和制ローマにおいて元老院派の権力集中を妨げ、新体制の国家へとローマを変革させるべく出世したガイウス・ユリウス・カエサル は、志半ばにして暗殺された。

しかし、その志は受け継がれる。

その人物こそ、カエサルを大叔父に持ち、後のローマ帝国初代皇帝となったアウグストゥス であった。

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カエサルの後継者

アウグストゥス
※アウグストゥス

アウグストゥスがローマを離れていた紀元前44年3月15日、大叔父カエサルが、マルクス・ユニウス・ブルトゥス、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスらに暗殺される。それを知るや、アウグストゥスは急遽ローマへ帰還し、その途中でカエサルが自分を後継者に指名していたことを知る。

これにより、わずか18歳の無名な青年に過ぎなかったアウグストゥスは、一躍有名になった。そして以後、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(Gaius Julius Caesar Octavianus)を名乗ったようである。

カエサル配下の軍団の支持を取り付けたアウグストゥスは、カエサルが宿敵としながらも生前に打ち破ることができずに終わったパルティア(カスピ海南東部、イラン高原東北部に興った王国・遊牧国家)との戦いを目標に掲げることで、カエサルの後継者としての支持を集める。

さらに勢力を拡大し、カエサルの有力な後継者候補として政治の世界にデビューしてのである。

初代皇帝へ


※執政官のアウグストゥス

次第に頭角を現すアウグストゥスに対して、カエサルの死後、単独の執政官として事実上権力を掌握していたアントニウスは危機感を募らせた。当時アントニウスはカエサルの公的遺産を着服していたため、これを譲り渡すようアウグストゥスが説得した。アントニウスはこれを拒否し、アウグストゥスは説得には失敗するものの、多数のカエサル支持者から同情を買うこととなった。

紀元前43年10月には、第二回三頭政治を成立させ、元老院派の粛清を行う。カエサル暗殺者逮捕を大義名分として、元老院派と判断された元老院議員約300人、騎士身分約2,000人が殺害、その財産が没収されたといわれる。

紀元前42年1月1日、元老院はカエサルの神格化を決定、カエサルは神君ユリウス (Divus Julius) の名を与えられた。これによりアウグストゥスは自らを「神君の息子」とし、元老院での影響力を強めた。

その後は外敵と国内のライバルを同時に排除しつつ、首都ローマおよびイタリア、つまり本国を直接支配する執政官職に上り詰める。

紀元前27年1月16日、かつてユリウス・カエサルの副官であったルキウス・ムナティウス・プランクスが、それまでオクタウィアヌスを名乗っていたアウグストゥスに「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を贈ることを提案し、元老院は国の全権を掌握するようアウグストゥスに要請する。

アウグストゥスは数度にわたり辞退したが、最終的にはこれを承諾し、この日以降正式にインペラトル・カエサル・アウグストゥス (Imperator Caesar Augustus) と名乗るようになった。

初代ローマ皇帝アウグストゥスの誕生である。

アウグストゥス の政治姿勢


※ガイウス・ユリウス・カエサル

しかし、皇帝に即位する以前のアウグストゥスは、強大な権力を持ちながらも「プリンケプス」と自称していた。「元首」や「市民の長」といった意味である。また、その政治体制も「ドミナートゥス (専制君主制)」と区別して「プリンキパトゥス (元首政)」と呼ばれている。

共和制ローマでは、独裁官という公職があった。通常は外敵の侵入や疫病の流行、政治的混乱など、国家の非常事態が発生した場合、短期間(通常6ヶ月)だけあらゆる領域に及ぶ強大な権限を有する「独裁官(どくさいかん/dictator/ディクタトル)」が任命される。しかし、カエサルは事実上の終身独裁官となって権力をその手中に収めた。

それがカエサル暗殺の原因ともいわれるが、アウグストゥスは同じ轍を踏まないように、元老院や民衆に対して「独裁官ではない」ことをアピールしたのだ。しかし、実際のところ軍隊の指揮権、官職の任命権、財政においても多くの権限を掌握していたので実態はほとんど独裁政治と変わらない。とはいえ、完全に独裁とも言い切れないため、この時代のローマの政治体制は元首政(プリンキパトゥス)と呼ばれるようになった。

権力の確立


※アウグストゥス(ローマ市内の銅像)

アウグストゥスは、皇帝となってもその権力を一気に拡大することはしなかった。

カエサルが非常大権として一時的に権力を握ったのとは異なり、あくまでも従来から存在する公職、つまり執政官職と軍司令官を兼任するといったものであった。また共和制の秩序を乱すような新たな地位に就くことも行わなかったのである。アウグストゥス自身、「私は権威において万人に勝ろうと、権力の点では同僚であった政務官よりすぐれた何かを持つことはない」(『神君アウグストゥスの業績録』)と述べている。

しかし、この時点でアウグストゥスは皇帝としては十分な権力を確立したことになる。

紀元前27年秋から紀元前24年にかけて西方の再編に着手、紀元前23年にローマに帰還した。同年、すでに就任していた執政官を辞任する代わりに、1年限りの護民官職権が与えられ、以後は毎年更新されることになった。法案に対する拒否権等の権限がこのとき与えられたのである。さらに軍事的にも最高司令官の地位を確立した。

この結果、権力はより強大なものとなり、皇帝としての地位は磐石のものとなったのである。

私人としての アウグストゥス


※マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ

アウグストゥスは、一世紀にわたる内乱の時代を終わらせ、ローマに平和をもたらし「パクス・ロマーナ(ローマ帝国の支配領域(地中海世界)内における平和)を実現させた。その功績は非常に大きい。

しかし、私人として見ると意外な点も多かった。

身長170cmほどで均整のとれた体格だったが、若い頃は体力がなく病弱で、様々な内疾患もあった。その上、肌も弱いためつばの広い帽子をかぶって行動していたという。また、疲れやすく、寝坊しやすかった。軍事的なことは自分には不向きとして、戦いのほとんどを親友で部下のアグリッパ に全面的に任せていたらしい。

マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、アウグストゥスの腹心であると同時に親友でもあった。のちにアウグストゥスの娘婿となる。ガイウス・ユリウス・カエサルに見出され、主に軍事的な側面でアウグストゥスの補佐的役割を果たした。

そう、アウグストゥスは軍事の才は持っておらず、戦争においてはアグリッパの功績が大きかったのだ。さらに「アウグストゥスはアレクサンドロス大王やカエサルのような、圧倒的な知力の持ち主ではなかった。しかしあの時期の世界は、彼のような人物こそを必要としていた」と後世の研究家は語る。

アウグストゥスは、時代の流れや機運を読むのに長けていたのだろう。

最期に

アウグストゥスは、軍事的な才能はなく、政治的にも驚くようなパフォーマンスを見せていない。それでも帝政ローマを築き、皇帝として多くの業績を残したのは「現状を分析する能力、そしてそれを活かす能力」があったからではないだろうか。

歴史家たちは派手な出来事を好むが、アウグストゥスはインスピレーション能力は低くても、それを補う状況判断能力が高かったはずだ。

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