西洋史

【テルマエとローマ皇帝】ハドリアヌス について調べてみた

18世紀のイギリスの歴史家「エドワード・ギボン」は著書「ローマ帝国衰亡史」のなかで、人類がもっとも幸福で繁栄した時代は、ローマ帝国の「五賢帝」の時代だったと述べている。

それは96年から180年までの5代の皇帝によるローマ帝国の最盛期である。ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、そしてマルクス・アウレリウスが「ネルウァ=アントニヌス朝」の五賢帝と呼ばれ、そのなかで3人目の皇帝「プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス」こそ、ローマ帝国の安定のために大きな業績を残した。

ローマ最盛期の皇帝 ハドリアヌス

【テルマエとローマ皇帝】ハドリアヌス について調べてみた
【※ハドリアヌス胸像】

ローマ帝国初代皇帝「アウグストゥス」が即位した紀元前27から、90年後の117年、第14第皇帝に即位したハドリアヌスは、すでに広大な土地を支配していたローマ帝国の安定化に尽力することになる。この時代、ローマ帝国の領土は先代のトラヤヌスによって最大になっていて、彼の時代はいかにこれを維持するかが重要だった。

首都のローマはアウグストゥスの治世にはすでに100万都市となっていたが、第5代皇帝ネロの時代にローマの大火が発生、市外の3分の1が焼失するも、復興と共に区画整理によって世界最大の都にふさわしい街並みとなった。その後も、5万人を収容できるコロッセオやパンテオンなどの施設が建てられ、人々は日々の疲れを公衆浴場で癒すという優雅な生活を送るようになる。こうした公衆浴場は「テルマエ」と呼ばれ、貧富の差に関係なく利用できる公共施設として人気となった。

ヤマザキマリの漫画で実写化もされた「テルマエ・ロマエ」の時代こそ、まさにハドリアヌスの時代である。劇中では、ハドリアヌスを俳優・市村正親が演じている。

ローマ皇帝へ


【※117年のローマ帝国最大領土】

ハドリアヌスはローマ生まれといわれているが、トラヤヌスと同じくヒスパニア(現・スペイン)で生まれたとの説もある。

これは、青年時代に彼が演説をした際にわずかながらヒスパニア訛りがあったというが、これは側近の影響があったともいわれており、いずれにせよハドリアヌス自身が矯正したために若くして直ったという。

軍人として属州を転戦したハドリアヌスは、早くから各地で見聞を広めた。やがて軍団司令官として軍人として実績を残すと政界にも進出してトラヤヌスに認められるようになる。当時のローマは、イラン高原を中心とした遊牧国家「パルティア」との断続的な戦争を繰り返しており、トラヤヌスもハドリアヌスを遠征軍総司令官に任命した直後の117年、病により急死してしまう。逝去の前にトラヤヌスはハドリアヌスを養子とする書簡を彼に送ったのだが、シリアに滞在していたハドリアヌスがこれを受け取ると、正式な即位もしていないというのに配下の軍人たちから「インペトラル(皇帝)」と歓喜の声が上がった。

彼が軍人としても人間としても多くの人々から慕われていたということを物語るエピソードである。

ローマの平和路線


【※ハドリアヌスの長城】

即位するまでに苦労したローマ皇帝は多いが、ハドリアヌスは比較的スムーズに即位できたといっていい。

元老院の一部から反発が考えられたことから、ハドリアヌスが議員4名の暗殺を命じたということで、暴君の一面を唱えるものもいるが、腹心による暗殺であったとする説もある。

特筆するべきは、彼は即位までのエピソードよりも皇帝を継承してからの話題に事欠かないことだ。

すでに広大な土地を属州としていた当時のローマの現状を考え、領土拡大よりも国内の整備に力を注いだのである。東方のメソポタミアとアルメニアを放棄し、代わりに東部国境の防衛力の強化を図った。さらに西方のブリタニア(現・イギリス南部)他、ライン川やドナウ川、アフリカなどで防壁を構築し「ハドリアヌスの長城」と呼ばれるようになる。なかでもブリタニアのものは全長118kmという規模を誇る。

ハドリアヌスは、平和こそローマの繁栄を維持させるものだと考えていた。

愛人の事故死と晩年


【※ハドリアヌスの愛人、アンティノウスの立像。バチカン美術館所蔵】

ハドリアヌスの業績として語られるのが、二度に渡る長期巡察旅行である。

ローマに留まることなく、積極的に属州を巡り、帝国全体の状況を自分自身の目で見て、問題点を改善していった。属州とローマとの格差を解消すべく、地方の整備を行い、巡察することで象徴としての皇帝の存在を示す。

その他、統治機構の整備、法制度も整備することでそれまでまとめられていなかった法律を統合させるべく、その礎を築いた。一方で、この巡察中に寵愛していた青年「アンティノウス」がエジプトのナイル川で事故死したことで、ひどく落胆したという。ギリシア文化に傾倒していたハドリアヌスは男色家だったというが、当時としては問題視されるようなことではない。

しかし、アンティノウスの死後は、彼のために神殿や都市、さらにはアンティノウス座を夜空に作ったことは有名である。この傷心と関係があったのか、晩年は体調を崩し、自殺未遂を繰り返すが失敗し、138年7月、62歳でその生涯を閉じた。

文化人としてのハドリアヌス


【※テルマエ内の冷水風呂・フリギタリウム】

ハドリアヌスは、政治的業績だけでなく、文化的な業績も残している。

118年にはローマ近郊に大規模な「ウィラ・ハドリアヌス(別荘)を造営し、後世に大きな影響を与える建築様式を残した。ローマの神々を祀るパンテオン神殿など、多くの造営事業も行ったのである。このあたりも、ローマの大火の跡地に「ドウム・アウレア(黄金宮殿)」を建設したネロと似ているのかもしれない。

そして、なにより、ハドリアヌスは歴代ローマ皇帝において、もっとも評価が高い。

様々な学問に精通し、その好奇心は旺盛でありながら、判断は冷静。そして、ローマにおいては自らも市民のように振舞ったという。あるとき、テルマエを訪れた彼は、老人が背中を壁面にこすり付けて石鹸をすり落としているのを見た。すぐにその老人がかつて指揮下にいた元軍人であることを思い出す。身の回りの世話をする奴隷すら雇えなくなった身分の老人に対し、ハドリアヌスは資金の援助を申し出たという。

テルマエがハドリアヌスの人格を表す舞台となったのである。

最後に

ハドリアヌスの時代、大きな戦や元老院との確執なども少なく、統治のしやすい時代だったといえる。だからこそ、ハドリアヌスは平和な時代にできることを見出して、ローマ帝国という財産を目減りさせることなく後世に残したのだ。平時においても現状に満足せず、妥協のない政治を行ったことがハドリアヌスが非凡であった証拠である。

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