高橋紹運 の生い立ち
高橋紹運(たかはしじょううん)は天文17年(1548年)に大友義鑑(おおともよしあき)の重臣・吉弘鑑理(よしひろあきまさ)の次男として生まれました。
義鑑の子の大友義鎮(のちの宗麟)と実父の鑑理から賜った「吉弘鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)」と名付けられました。
初陣は13歳の時、永禄4年(1561年)の北九州・門司における毛利家との戦と伝わっています。
永禄10年(1567年)にそれまで大友氏に臣従していた高橋鑑種(たかはしあきたね)が離反したことから、父・鑑理や兄・吉弘鎮信らとこの鎮圧にあたり、若くして功を挙げたと言われています。
この功から、永禄12年(1569年)に主君・大友義鎮(宗麟)の下命を受け、高橋氏が統べていた岩屋城と宝満城の2つの城と、その名跡「高橋」を継承することとなりました。
この折、名も「鎮種」へと改めまていす。
後に秀吉から「鎮西一の勇者」と評されることになる立花宗茂、その実父が紹運ですが、自身も若き頃から知勇を兼ね備えた武将として、後に岩屋城で壮絶な討ち死にを遂げる
まで、大友家の筑前支配を担う働きを重ねていくことになりました。
大友家の衰退と紹運
天正6年(1578年)に発生した「耳川の戦い」において、大友家は薩摩の島津家に大敗を喫します。
この戦いは単に大友家の一時的な敗北に留まらず、有力な家臣を多数失ったことから大友家の著しい衰退を招くことと
なりました。この戦いで紹運の実兄の吉弘鎮信、義兄の斎藤鎮実、重臣・角隈石宗、佐伯惟教、田北鎮周など大友家を支えた有力武将達が多数討ち死にしてしまいまったのです。
この結果、島津家だけでなく九州北部でも大友家に反旗を翻す動きが広がりました。肥前の龍造寺氏や筑後筑紫広門、筑前の秋月種実ら、かつては大友家に臣従していた国人武将らの離反が相次いだのです。
これらの勢力と対峙しつつ、同年鎮種は剃髮して「紹運」を号することになります。
嫡男・統虎(後の立花宗茂)へのはなむけ
紹運は、天正9年(1581年)には跡継ぎのいなかった立花道雪の要請を受け、自身の嫡男・統虎(後の立花宗茂)を道雪の娘・誾千代の婿養子にすることを承知します。
これによって高橋家は次男の高橋統増が嫡子となりました。
巷説では、この時紹運が養子にいく嫡男の統虎に対し、自らの愛刀・備前長光を授けて
「戦国の世にあっては、今後・立花家と高橋家が争うことになるかもしれない。その時はその刀で自分を討つように」
と諭したいうエピソードが伝わっています。
高橋家の人間ではなく立花家の人間となるのだから、もしも敵味方に分かれることがあれば、実の父であっても躊躇せず向かってくるようにという戦国の武人の心構えを説いたものです。
紹運の人となりが偲ばれる、武人としての苛烈さと潔さを現したものとして今に伝わっています。
筑後での戦い
天正12年(1584年)の長崎・島原における「沖田畷の戦い」において龍造寺隆信が島津家久に討ち取られると、島津家は九州制覇に向けて北上する姿勢を強めました。
同時に大友家から離反する勢力が拡大したため、同年3月に紹運と道雪は主君・大友義統から筑後方面への出兵を命ぜられます。
道雪と紹運は合計で凡そ5,000の兵を率いて筑後猫尾城へと出陣し、秋月、筑紫、草野、星野ら離反した国人勢力を打ち払いました。続けて筑後の諸城を次々と、攻めだけでなく調略も用いて攻略していきました。
天正13年(1585年)2月から4月にかけて、龍造寺政家、龍造寺家晴、鍋島直茂、後藤家信、筑紫広門などが率いる凡そ30,000余の敵の軍勢に対し、道雪と紹運らの大友軍は凡そ9,800人の兵力で対峙します。兵数の上では約三分の一と圧倒的に寡兵ながらも、何とか敵軍を退ける奮闘を魅せます。
しかし、天正13年(1585年)9月、道雪が病いて没します。これに乗じた筑紫広門が紹運の居城・宝満城を落としたため、紹運は筑後での遠征を諦め筑前へと戻り、なんとか宝満城を奪い返します。その後に筑紫広門と和睦し、広門の娘・加袮を自身の次男・統増の正室に迎える政略婚を成立させて、宝満城の支配を安定させました。
岩屋城の玉砕
天正14年(1586年)7月、九州の覇権を賭けて島津忠長・伊集院忠棟を大将とした凡そ20,000人の島津軍(一説には50,000人とも)が筑前へと侵攻してきました。
薩摩勢は、紹運が守る岩屋城・宝満山城の麓である太宰府に着陣、紹運は手勢763名を率いて岩屋城に籠城します。もう片方の配下の宝満城には紹運の妻と、次男・高橋統増、岩屋城から妻子を避難させていました。
島津忠長は籠城する紹運に対して降伏勧告を行いますが、紹運は従いません。
巷説では、島津忠長は紹運ほどの武将を徒に死地に向かわせることを惜しみ、3度にも渡って降伏を薦めたと伝わっています。
また敵だけではなく、味方の息子・立花宗茂や秀吉の軍師・黒田孝高からも、岩屋城は防御に適さない城につき撤退してはどうかと促されますが、いずれも伝えに来た使者に丁重に断り、岩屋城での籠城を続けました。
ここに至り、島津勢も攻撃を開始、2週間に及ぶ壮絶な籠城戦が行われました。紹運以下、鬼気迫る籠城兵達は、頑強な抵抗を続け、一説では島津軍に戦死傷者3,000人にも及ぶ甚大な損害を与えたと伝わっています。
しかし、その抵抗も大軍の島津軍の攻撃の前に矢折れ刀尽き、最期、紹運は割腹して果てたと伝わります。
この籠城戦は高橋勢に生存者はいなかったとされる、壮絶な玉砕で幕を閉じました。
しかし、島津側に甚大な損害を与えたことから、残る筑前の大友方の要衝・立花宗茂が籠もる立花山城に対する攻撃に遅れが生じさとされます。
更には豊臣秀吉が直接率いた20万もの軍勢が九州に上陸、結果島津勢は筑前から駆逐され、撤退を余儀なくされると同時に、九州制覇の野望は潰え、秀吉の軍門に下ることとなりました。
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