横井小楠(よこいしょうなん)の生い立ち
横井小楠は文化6年(1809年)、肥後国の内坪井町に生まれました。
肥後細川藩で150石の禄の武士・横井時直の次男で、「小楠(しょうなん)」は号のひとつで名は「時存(ときあり)」と言いました。ここでは「小楠」で記述していきます。
小楠は藩の学校であった「時習館」に学び、天保8年(1837年)には「時習館」の居寮長(塾長)となるなど、学問に秀でた人物でした。天保10年(1839年)には藩からの命により江戸へと遊学し、儒学者・林檉宇(はやしていう)の教えを受けます。一方でこの江戸滞在時に、幕臣であった川路聖謨(かわじとしあきら)や、幕末の志士たちに多大な影響を与えた水戸藩士の藤田東湖など、後の歴史に名を馳せる人物達と交流を結びました。
人間味を感じさせるエピソードとして、同年の12月に藤田東湖が開催した忘年会に招かれた小楠は、その帰りに深酒のあげくに喧嘩沙汰を起こした件があります。この件で藩から国元の肥後に帰国させられ、70日に及ぶ謹慎
処分を受けたものです。しかし、さすがは学者、この期間に朱子学の研鑽に励んだと伝わっています。
時務策と小楠堂
小楠は、翌天保12年(1841年)頃から仲間たちと研究会を開きます。
それが「実学党」という「実際に役立つ学問こそが、最も大事である」という主張を唱えるグループとなっていきました。
この一環で、小楠は天保14年(1843年)に肥後藩の藩政改革を促す目的で「時務策」を著しました。しかしこの策は、藩の行政を批判したもの解釈され、藩には取り上げられませんでした。
その内容は凡そ以下のようなものでした。
・藩の上級者のぜいたくな暮らし止め、下級武士や民衆に還元すること
・農民を自営にすることで、離村を防ぎ農村を復興すること
・特権を持った商人を排除して、藩の権力に癒着させないこと
現代にも通じる部分の多い、行政改革の提言と言えると思いますが、当時の保守的な武家社会であった肥後・細川藩ではまったく受け入れらなかったのです。
こうした境遇の中で、小楠は天保14年(1843年)に自宅の一室を使用して私塾(後1847年に小楠堂と命名)を開気ました。
この塾に越前・福井藩の藩士が学んだことがきっかけとなり、後に招聘されることになりました。ちなみに、翌嘉永6年(1853年)の10月には、長州の吉田松陰が小楠堂を訪れ3日間にわたり歓談を交わしたと言われています。
四時軒と国是7カ条
安政2年(1855年)5月に沼山津(現・熊本市東区沼山津)の地に移り住み、自宅を「四時軒(しじけん)」と名付けました。
この「四時軒」には、かの坂本龍馬や、井上毅、由利公正など多くの明治維新の功労者達が訪問したことが知られています。
小楠は翌安政5年(1858年)3月に越前・福井藩に招聘されて赴きます。福井藩主・松平春嶽から請われたもので、当初肥後・細川藩ではかつての「実学党」の藩政批判の件もあり、許しが下りませんでした。
春嶽の重ねての要請でようやく福井行きを許可されや小楠は、50人扶持の待遇で福井藩の藩校明道館で教鞭を獲り講義を行いました。
小楠は、文久2年(1862年)7月に江戸の越前松平家別邸に招かれ、徳川幕府の政事総裁職に就任した春嶽のアドバイザーとして幕幕府政治の改革に携わります。そして幕府へ「国是七条」を起草し、建白しました。
この「国是七条」の内容については徳川慶喜にも対面して意見を述べました。
「国是7カ条」の内容は以下のようなものでした。
・徳川将軍は上京して、天皇に対し過去の無礼を謝罪する
・大名の参勤交代制度を廃止する
・大名の妻子を江戸から国元に帰す
・優秀な人材を幕府の役人に登用する
・多数の人で意見を出し合って、公に政治を行う
・海軍を創設して、軍事力を強化する
・海外との貿易は幕府が統括して行う
広く知られた勝海舟や、坂本龍馬などの思想との共通点が多い、示唆に富んだ内容であることが窺えます。
浪人と新政府への招聘
先の「国是7カ条」を建白した後の文久2年(1862年)12月、小楠は同郷の熊本藩士の別邸開かれた酒宴に参加しました。その折、3人の刺客に襲われ、床の間に置いていた刀を手にできずに一旦外へ逃れました。
宿舎にしていた福井藩邸で予備の刀を取ってきて現場に戻ったものの、刺客の姿はなく熊本藩からはこの時の行為を、敵に背を向け、友を置き去りにして逃げたとして、武士にあるまじき振舞いとして非難されました。
福井藩は小楠を擁護する意見が出されたものの、この件で小楠は熊本藩から家禄召し上げ・士席剥奪の処分を受け浪人の身となりました。
しかし慶応3年(1867年)12月18日、小楠を明治新政府に登用したい旨の書状が熊本藩に送られます。
熊本藩では先の処分から辞退を返答するも、岩倉具視が重ねて請願したため熊本藩も認めるほかなく、小楠の処分を解いて上京を命じました。
小楠の最期
明治2年(1869年)1月5日、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)においてで小楠は刺客からの襲撃を受けました。
小楠の駕籠に発砲し、6人が斬りかかってきました。警護役の応戦し、また小楠自身も短刀で応戦しますが、落命してしまいました。
暗殺の理由は、小楠が開国を推進して日本にキリスト教を蔓延させようとしているという事実無根の内容と伝わっています。
新政府の参与に任じられて1年にも満たない、短い表舞台での人生でした。
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