「一人は皆のために、皆は一人のために」の名言でお馴染みの三銃士。
フランス史を知らずとも、この言葉や三銃士の物語を知らない方はいないのではないだろうか。その三銃士の主人公ダルタニアンは、空想の人物ではなく実在した人物であるが、知名度のわりに彼に関する伝記や史料は少ないように思う。
そこで彼が、実際にどのような人物であったのか調べてみた。
ダルタニアン 物語
1844年からフランスの新聞に掲載されたアレクサンドルデュマの「三銃士」という物語は、世界中で翻訳され、映画化や芝居化、絵本化や人形劇にもなっている不屈の名作「ダルタニアン物語」の全三部作の第一部である。
物語の舞台は17世紀のフランス。
ルイ13世の治世に、ガスコーニュから立身出世を夢見て上京した主人公ダルタニアンが、銃士隊で有名なアトス、ポルトス、アラミスの三人(三銃士)に出会い、困難を解決しながらフランス元帥にまで出世するストーリーだ。
ここ日本では、NHKの人形劇や宝塚の舞台、映画「三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行」や、レオナルド・ディカプリオ主演の「仮面の男」に登場する三銃士とダルタニアンが有名かもしれない。
ダルタニアンは、デュマが創作した空想の人物ではなく、実在した人物である(ちなみに三銃士のアトス、ポルトス、アラミスも実在する)
では、史実上のダルタニアンも、人形劇や映画さながら他の近衛隊と決闘をし、敵の陰謀を暴き、戦場を駆け巡り、フランス元帥まで出世したのだろうか?
本名はシャルル・ドゥ・バツ・カステルモール
結論から先に言うと、ダルタニアンは物語とは違いフランス元帥にはなっていない。
物語では20歳前後のダルタニアンが1625年にパリへ上京ということになっているが、史実では15歳前後で1630年頃パリへ入城したのではないかと推測されている。
ダルタニアンの本名はシャルル・ドゥ・バツ・カステルモールだが、彼はパリへ上京するにあたり、自らを「シャルル・ドゥ・モンテスキュー・ダルタニアン」と名乗った。
「ダルタニアン」というのは母方の姓で、母方の祖父「ジャン・ダルタニアン」は近衛歩兵連隊で旗手を務めていたからだ。
当時は職に就く為に、有力者の寵遇は必要不可欠で、特に親族のコネや人脈を利用するのは当たり前だった。故に彼はダルタニアンを名乗ったと考えられている。
上京後すぐの決闘騒ぎも三銃士の見所ではあるが、1623年にルイ13世は厳罰付きの決闘禁止令を出している(この禁止令がきちんと守られていたか定かではないが)
そしてダルタニアンの名前が初めて歴史に記録されたのが1633年の閲兵書においてだが、それ以降、十三年間ダルタニアンの記録はない。
デュマが設定したダルタニアン上京の1625年から、史実で再びダルタニアンが登場する1646年頃の、およそ20年間のフランスはというと、国内ではルイ13世と宰相リシュリュー、王太后マリによる三頭政治の権力闘争が繰り広げられていた。
そして対外的には、1627年に王妃アンヌ・ドートリッシュと恋仲だったとされるバッキンガム公率いるイギリスとのラ・ロシェルの攻囲戦、三十年戦争への介入、スペインへの宣戦布告など、物語のネタには事欠かない。
もしかしたら史実のダルタニアンも、どこかの戦場へ出兵し武勲を立てていたかもしれないが、想像の域を出ないものである。
1646年、ダルタニアンが再び歴史に登場するのだが、実はこの頃、マザランによりすでに銃士隊は解散していた。
史実におけるダルタニアンの仕事
では、1646年以降、ダルタニアンがどんな仕事をしていたか簡単にまとめてみることにする。
銃士隊が解散したパリで、ダルタニアンはマザランの伝令係を務める。数年後の1651年から国内ではフロンドの乱が勃発し、彼はマザランの命により彼の亡命先を確保したり、伝令係としてパリとプレールを何度も往復したりした。
その後テュレンヌ元帥指揮下の近衛歩兵連隊隊長代理となり、フロンドの乱終結後の1654年にはチュイルリー庭園鳥舎隊長(名誉職)を手に入れる。
1656年、隊長代理から隊長に昇進すると、57年冬まで戦場で過ごすが、その年の1月にルイ14世が銃士隊を再組織。
ダルタニアンは1658年の春からルーブル宮警護任務・北部国境任務を経て、同年6月、40歳を過ぎて銃士隊へ入隊し、隊長代理に就任したのだった。
1661年、長年仕えていたマザランが死去すると、彼は近衛隊隊長職を売却。ルイ14世の命令でフーケ逮捕と護衛の任務につく。
その後1665年にオランダ遠征に出兵すると、翌年ルイ14世はダルタニアンの働きを称え「ノロジカ追いの小犬の隊長」という宮内官職を授けた。
さらに翌年の1667年。ダルタニアンはついに一番隊銃士隊長(旧国王付きの銃士隊が一番隊、枢機卿付きの銃士隊が二番隊)に昇進し、この頃から彼は伯爵を称するようになったが、国王をはじめとして誰も異を唱えなかったという。
そして1672年になると、ダルタニアンは臨時ではあるがリール都市の総督になる。
しかし1673年。オランダ戦争出兵の際、味方のモンマス公爵を守らんとすべく敵の銃弾を受けて戦死した。
一番有名なエピソード
このように、ダルタニアンは様々な仕事を忠実にこなしながら順調に出世をしていったわけだが、物語のようにフランス元帥にはなれなかった。
ここで、ダルタニアンの人柄と仕事ぶりがよく分かる有名なエピソードを、佐藤賢一著「ダルタニアンの生涯~史実の『三銃士』~」より参照する。
ダルタニアンがフーケを護送する任務についた時のこと。
護送隊は群衆が沿道を埋め尽くす道中では決して立ち止まらないよう命じられていた。馬車が停止した隙にフーケ側の郎党が接触を計る恐れがあったからだ。
その群衆の中に、逮捕されてから一度も顔を会わせていないフーケ夫人と子供たちがいた。
命令上、ダルタニアンは馬車を停めることはできない。そのかわりに彼は、馬車の速度を落とせと指示した。ゆっくり進む車室の扉口で、束の間の、家族の抱擁の機会を与えたという。
「王には忠義があり、かつ護送する囚人には人道ありと」世に絶賛され、郎党も拍手喝采を惜しまなかった。
与えられた仕事に対して誠実ながらも己の正義を疑わない、男気あふれるエピソードである。
さいごに
ダルタニアンが戦死した報を受けたルイ14世は、王妃にこのような手紙を書いたと言われている。
『マダム、朕はダルタニアンを失ってしまいました。朕が最も大きな信頼を寄せていた男です。なにごとにつけても朕によく仕えてくれた男です』
時の絶対王ルイ14世が“最も大きな信頼を寄せていたダルタニアンは、元帥という肩書き以上に英雄であった。
確かに、歴史を動かすほどの華々しい活躍はなかったかもしれない。しかし、移り変わる主の元で真摯に仕事をこなしていた、まるでサラリーマンのような彼の姿の方が、今日の我々には親しみを与えているのではないだろうか。
(参考文献)
「ダルタニァンの生涯 史実の『三銃士』」佐藤賢一
「フランスの歴史をつくった女たち」ギー・ブルトン 曽村保信訳
「聖なる王権ブルボン家」長谷川輝夫
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