書も達者
榊原康政(さかきばらやすまさ)は徳川家康に小姓として出仕し、後には酒井忠次、本多忠勝、井伊直政らと並んで徳川四天王とも並び称された武将です。
康政については武勇に秀でていた逸話以外にも、書が達者であったことも伝えられています。
その達筆故に家康の代書を行うことも多かったとされていますが、江戸期に書かれた書物の中には、豊臣秀吉と家康が争った小牧・長久手の戦いの際の逸話が伝えられています。
このとき康政はその達者な文字で書いた高札を各地に立てて、秀吉による織田家家督の事実上の簒奪を訴えたと伝えられています。
徳川の先手旗本
康政は天文17年(1548年)に榊原長政の次男として三河に生まれました。
13歳で家康の小姓となり、三河の一向一揆において初陣を飾り、その時の功から家康の康の一文字を賜り康政を名乗ることになったと伝えられています。因みに家康は天文11年(1543年)生まれですので康政が5年程若年となっています。
康政には兄がいましたが、次男である康政が家督を継いだ理由ははっきりとしていません。康政は永禄9年(1566年)に19歳で元服すると、本多忠勝と同じく旗本の先手役を担うことになったとされています。
その後も徳川の負け戦、武田との三方ヶ原の戦いでも家康の退却を援け、長篠の戦いでは家康の本陣を武田勢の内藤昌豊の突撃から守り、更に本能寺の変の後には家康一行の大阪からの逃避行である伊賀越えにも従ったと伝えられています。
森長可を討つ
※小牧・長久手の戦いでの榊原康政(楊洲周延画)康政の武功の中でも特に際立っているのが、天正12年(1584年)に発生した小牧・長久手の戦いでの働きです。
この戦において康政勢は、別動隊となった秀吉の甥・秀次勢を奇襲して壊滅させ、続けて森長可、池田恒興ら主力の武将を討ち死に追い込んでいます。
冒頭の高札の逸話はこの時のもので、戦の後に京への徳川家の使者として上洛した康政は、秀吉からその豪胆さを称賛されたと伝えられています。
天正18年(1590年)の北条氏に対する小田原征伐においても、康政は徳川勢の先手を担い、家康が関東へ移封されると、それに伴い上野国館林城の10万石を領しました。
関ケ原には遅参
康政はこれまでは多数の戦で武功を重ねてきましたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには参戦できませんでした。
康政は徳川勢の主力だった秀忠の軍監として中山道を進みましたが、信州の真田昌幸が籠った上田城の攻略を果たせず、悪天候も重なったことから本戦である関ケ原に遅参することになりました。
巷説では、上田城の攻略に拘った秀忠に対し、康政はこれを回避して進軍することを進言したものの、秀忠が聞き入れなかったとも言われていますが、定かではありません。
文武、用兵に秀でた名将
康政は個の武においては本多忠勝に劣るものの、用兵においてはこれに勝り井伊直政に匹敵するとも評された武将でした。また、外交においては在りし日の上杉謙信を担当したとも伝えられています。
関ケ原の戦後、康政への加増がなかったことで、家康の勘気を被ったとする向きもありますが、この負い目を憚って、家康からの加増の打診を自ら断ったとも伝えられています。
康政は、慶長11年(1606年)5月に病を得るとそのまま群馬県の館林にて死去しました。文武に秀でた武将は享年59で息を引き取りました。
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