長篠城を死守した 奥平信昌
奥平信昌(おくだいらのぶまさ)は戦国期から江戸期にかけて生きた武将・大名です。長篠の戦いの前までは貞昌と名乗っていました。
戦国期にあって奥平氏は武田氏と徳川氏の狭間で厳しい選択を強いられましたが、徳川家康の長女・亀姫を正室に迎えると徳川方に与する決断をしました。
その後武田軍と織田・徳川連合軍が激突した長篠の戦では、その前哨戦となった長篠城での籠城戦を戦い、数十倍もの武田勢から城を守り抜く武功を挙げ、織田・徳川連合軍の勝利に大きく貢献しました。
徳川家康が天下人となると、信昌は徳川四天王に続く重臣として重用されました。
武田信玄の死
信昌は、弘治元年(1555年)に三河の国人であった奥平定能の長男として生まれました。奥平氏は父・定能の前の代までは今川氏に従属していましたが、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破って以後はそこから独立した家康に臣従していました。
しかし、元亀元年(1570年)に甲斐の武田信玄が三河へと兵を進めるとその軍門に下り、武田に従属することになりました。
その後の元亀4年(1573年春)、破竹の勢いで西上を続けていた武田勢が、突如として領国の甲斐へと引き上げることになりました。理由は武田信玄の急死でした。
武田では悟られまいと必死でしたが、やがてこの事実は諸国に知られることになり、家康は貞能・貞昌親子に対して伝えて再度徳川方に付くことを促しました。
長篠城への入城
家康からの誘いを受けた貞能・貞昌親子は信玄の死が確かなことを察知して、その要請に応える決断をしました。
この時に、信長の献策もあり家康の娘である亀姫との婚儀を持ち掛けられた貞昌は、武田家へ人質に出していた元の妻を離縁して徳川への従属を選びました。
この貞能・貞昌親子の離反を知った武田勝頼は、人質としていた貞昌の妻など3名を天正元年(1573年)9月に処刑しました。
同年の7月に家康は武田方の長篠城を陥落させると、貞能・貞昌親子を入城させて武田との最前線にあたる防衛を任せました。
長篠の戦いの勝利に貢献
勝頼は天正3年(1575年)5月、兵1万5,000を率いて離反した奥平勢の征伐と長篠城の奪還を企図して侵攻してきました。
貞昌は僅か500名ほどの手勢で長篠城に籠城すると、家臣の鳥居強右衛門を家康への後詰の要請に向かわせました。そして徳川方の酒井忠次が率いた織田・徳川軍の別動隊が武田勢を後方から迂回して長篠城の包囲を崩すまでの間、武田勢の攻撃から城を守り抜きました。
この後同月の21日に行われた長篠の戦いでも、織田・徳川軍は武田勢を鉄砲を活用した戦術を駆使して武田の騎馬隊を壊滅させて勝利を収めることになりました。
尚この戦いで信長からもその貢献を評価されたことから、一説には信長の「信」一文字を拝領して信昌を名乗るようになったとも伝えられています。
また一方では武田に従属していた際に、信玄の「信」を拝領して信昌と名乗っていたため、家康の配下になった際にその事実を憚って、信長の逸話が後年創作されたものとも言われ定かではありません。
10万石の大名へ
その後信昌は家康が関東に移った天正18年(1590年)8月、自身も上野の甘楽郡宮崎に3万石を領して大名に列せられました。
更に慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後には京都所司代に任じられ、潜伏していた西軍の安国寺恵瓊を捕える働きを見せています。
続く慶長6年(1601年)にはそれら一連の働きを評価され美濃の加納10万石への加増移封を受け、ここに譜代の家臣として徳川四天王に続く大名となったのでした。
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