年月:1945年4月6日~7日
対戦相手:日本海軍VSアメリカ海軍
特徴:航空援護の期待できない海上特攻作戦
結果:九州坊ノ岬沖にて、戦死者3,890名
目次
「第二艦隊沖縄出撃!」無謀と言われる海上特攻作戦・発令までの経緯
前年より航空攻撃は実施されていましたが、1945年3月26日から本格的な沖縄への攻撃が開始されました。
日本陸海軍航空隊による「特別攻撃隊(特攻)」を含む航空攻撃による反撃を実施するも、地上戦の劣勢を跳ね返すまでに至りません。
一方で、航空攻撃は連日実施されるも、水上艦艇による沖縄支援作戦は実施されずにいました。
この時点で、日本海軍の残存戦艦は5隻「大和・長門・榛名・伊勢・日向」でした。
しかし、艦艇の燃料は枯渇しかけており、本土決戦の際には陸上砲台として活用する計画もありました。
前年の1944年10月「比島沖海戦」武蔵の撃沈からも、強力な航空攻撃には、不沈戦艦の大和も意味のない(目的を達成できない)出撃と思われました。
昭和天皇から海軍軍令部総長・及川古志郎への質問
「反撃は航空部隊だけか」という主旨の質問が及川になされたとき、
これに対し及川
「海軍の全戦力を投入します」との返答。この辺りから水上艦艇の出撃が決まっていきました。
軍令部総長・及川は次長・小沢治三郎と相談して作戦の裁決をします。
昭和天皇の発言は、日本固有の領土である沖縄県民が苦しんでいる時に、海軍はどのような反撃を計画しているのか?との質問と判断します。
「大和の出撃は天皇の質問によって決まった。天皇が望んでいた」このような主旨の意見には同意できません。及川は海軍の指導者として無責任です。
反対意見の実施部隊の責任者たち
及川と小沢の決定を、実施部隊に伝えに行く役目を引き受けさせられたのが「草鹿龍之介中将」です。
実施部隊に説明に行くと、駆逐艦長たちから反対意見が表明される。命が惜しいのではなく、無駄な死であるとの意見です。司令長官の「伊藤整一大将」も反対です。意味のある死を賜りたいと。
そこで、草鹿参謀長
「一億総特攻の先駆けとなって欲しい」と言ったとのこと。
なおも駆逐艦長たちは反対でしたが、伊藤中将は了承する。ここに、大和を始めとした第二艦隊総員の運命が決まりました。
大和沖縄に届かず!敗因の分析
出撃が4月6日の夕刻で、翌7日12時過ぎに攻撃開始、14時過ぎに撃沈される。このように短時間の撃沈から、航空援護の無い艦隊行動の脆弱性が改めて証明されてしまいました。
敗因:対空兵装の不足
大和の対空砲は3種類
主砲の46㎝に時限信管をセットした三式対空弾
(攻撃目標1万m以上)
高角砲12.6㎝
(攻撃目標8,000m前後)
対空機関砲25㎜
(攻撃目標1,000m~2,000m)
これらの武器では、3,000m~6,000mの空域がカバーできていません。この高度は急降下爆撃機の進入高度なので重大な欠点です。
一方アメリカ軍は、対空機関砲40㎜(高度4,000m~6,000m)を装備しているので全空域をカバーしています。さらにVT信管・レーダーを装備しているので、命中度は日本軍の3倍以上とのこと。
波状の航空攻撃を受けては、どのようにしても沖縄への到着は不可能です。
それでは、どうすれば大和沖縄特攻が成功したか?
こうすれば戦艦大和の特攻が成功した!成功の定義とは
諸説ありますが、作戦目的は「成功の定義は」沖縄に到着して輸送船段や上陸軍に砲撃を行う。
可能ならば浅瀬に乗り上げて陸上砲台と化す。
乗員を上陸させて陸戦隊とする。
では、どのようにすれば沖縄に到着できるか?
その1 呉からの出撃ではなく、一度鹿児島に寄港して再出撃。
各拠点から沖縄までの直線距離です。
○呉~沖縄1,000㎞
○佐世保~沖縄800㎞
○鹿児島~沖縄660㎞
史実では4月6日の16:00に呉出向、坊ノ岬で14:00過ぎに撃沈です。約22時間で400㎞ほど航海しています。瀬戸内海には機雷もあり、最大船速ではなかったのでしょう。
戦艦大和の船速は27ノット(時速約50㎞)です。潜水艦対策なども考えると直線航行は難しいのですが、全速で直線航行すると鹿児島から14時間で沖縄到着です。どうにかして1日(24時間)の航空攻撃を防げないか?
その2 夜間に出撃して全速航行で沖縄へ
当時のアメリカ海軍航空隊の錬度は非常に高いのですが、夜間の航空攻撃は行えません。薄暮攻撃で夜間着艦も、危険のためやらないでしょう。
そこで、夜間に航行距離を稼ぐことはできます。潜水艦からの魚雷の視認が困難ですが、航空機に殺到されるよりよいでしょう。
ちなみに、16:00に出撃すれば、翌日の6時~8時に沖縄に到着しているので、アメリカの攻撃隊が大和攻撃に間に合ったか微妙です。
大雨の日に出撃する
当時の索敵は潜水艦又は航空機による偵察です。降雨が激しければ発見も困難です。
実際の大和出撃も雨の日を狙ったようですが、弱い雨でアメリカ海軍航空隊の攻撃の手を緩めるまで至っていません。
そこで、大雨の日の出撃が作戦目標達成(沖縄への到着)に近づきます。
極めて限られた地域の天気予測です。当時は台湾・沖縄が日本領なので、天気を的中させるのは難しくはないと思います。
デメリット:対空砲火の効果が低下する。雲の中からいきなり攻撃を受けるので、発見が遅れて対空砲火の効果が下がります。
しかし、もともと攻撃機を防ぎきれないのだから、雨の日を狙う効果が上と思います。
鹿児島に大和が待機する意味
大雨の出撃を狙って鹿児島湾に待機する大和。当然アメリカ海軍航空部隊も撃沈を狙って殺到するでしょう。
しかし、その分沖縄への航空攻撃が減少するので、鹿児島で待機していることが沖縄の負担軽減に成るのでは?
防御として鹿児島湾に防雷ネットを設置する。周囲には煙幕と対空砲火を備える。攻撃に来た敵機を撃墜する効果的な方法は、戦艦日向・伊勢の対空砲要員を派遣してもらいましょう。おそらく日本一の対空要員です。
まとめ
アメリカの侵攻先は台湾又は沖縄と言われていました。それならば、攻撃が本格化する前に、大和だけでも沖縄に派遣しておけばよかったのにと思います。
沖縄戦が始まった後に出撃しても厳しすぎる特攻です。
どうしても出撃するなら、呉からではなく鹿児島まで前進して、大雨の日を狙って出撃すれば作戦目的を達成できた可能性はあります。
平和な後世からすれば、「大和特攻は愚かな作戦だ」との意見はあります。しかし、日本固有の領土で日本人が戦禍に巻き込まれている時に、世界最大最強の戦艦を繰り出さない判断はできないでしょう。
軍隊は国民・国家を守る為に存在するのですから。
大和出撃は陸軍主導の特攻攻撃の囮ですよ。天皇の航空攻撃だけかと言う言葉まさにそれを指しています。なので大和の出撃日を変更する案は現実にはありえません。実際大和出撃の2日後から数日間雨天でした。ちなみに陸軍は航空総攻撃をその雨の後にずらしたので二水戦は文字通り犬死です。陸海の連携がまったく取れていなかったのが大日本帝国の敗因の大きなところでしょうし、その象徴が大和特攻なのです。