最期の外国製戦艦 金剛
戦艦・金剛は太平洋戦争において日本海軍が保有していた12隻の戦艦のうちの1隻でしたが、その戦歴から連合軍が「日本海軍の殊勲艦」に挙げた戦艦でした。
当時の12隻の日本の戦艦の中にあって、最も古くに建造された艦であり且つ、唯一外国で建造された艦でした。
金剛は1913年(大正2年)にイギリスのヴィッカース社において建造されました。これは当時のイギリスが世界最大の海軍国であり、画期的な弩級級戦艦ドレット・ノートを建造した技術を誇ったことから、その技術に倣う目的であったと伝えられています。
イギリスからの要請
金剛はその設計図を同じくした姉妹艦・比叡・榛名・霧島の3隻が日本において建造され、これら姉妹艦のネームシップでもありました。
奇しくもヨーロッパを中心とした初の世界大戦となった第一次世界大戦が勃発した時期であったため、当時日英同盟を締結していたイギリスから、この金剛を始めとする4隻の戦艦のレンタルを打診されたという逸話も残されています。このイギリスの申し出を日本はやんわりと断っています。
巡洋戦艦から高速戦艦へ
金剛は建造中に装甲巡洋艦から巡洋戦艦へと艦種の変更が行われた艦でした。
日本の戦艦は旧国名称が付与されましたが、巡洋戦艦であったことからこの習わしに当てはまらず、山の名称・金剛山から名付けられました。
金剛はその後も複数回の改装を施され、最終的には全長219.4m、最大幅31.0m、排水量31,720t、速力30.3ktを誇る高速戦艦として太平洋戦争を迎える事になります。
金剛や同型艦の戦艦たちは、日本海軍の戦艦群のなかで最大速度が30ktを超える速力を備えた軍艦とになったことから、航空母艦を中心とした機動部隊への随行が可能な戦力として余多の戦いに参加することになりました。
金剛の戦果
金剛型は主砲に35.6cm45口径連装砲を4基・8門実装していましたが、後に建造された長門型の40cmや、大和型の46cmと比べると旧式の艦故に火力面では一段階劣るものと言えました。
しかし金剛は、昭和19年(1944年)10月のレイテ沖海戦においてサマール島沖でアメリカ海軍の護衛空母ガンビア・ベイや駆逐艦ホーエル、サミュエル・B・ロバーツを僚艦らと共に砲撃し、それらの敵艦を撃沈したとされています。
金剛型戦艦たちのその後
日本海軍の12隻の戦艦群で最初に撃沈された戦艦が、金剛型・比叡でした。比叡は夜間海戦よなった第3次ソロモン海戦で、アメリカの駆逐艦や巡洋艦と砲撃戦を行うと、あまりに至近だったことから機銃の弾丸が艦橋に届いたほどだったとされています。その後アメリカの航空機により撃沈されました。
同じく霧島も強力な40センチ砲を備えたアメリカ軍の戦艦との砲撃戦で撃沈されまました。
榛名はアメリカ軍の呉軍港空襲で洋上砲台として防空戦を実施、多数の命中弾を受けて呉港に着底するという最期を迎えました。
金剛の最期
レイテ沖海戦では戦艦・武蔵を含む多数の艦が連合軍によって撃沈されましたが、何とか金剛はその中を生き延びました。昭和19年(1944年)11月16日に日本への帰還が決まった金剛は同じく生き残った戦艦・大和、長門と駆逐艦4隻と共にブルネイから出航しました。
同年11月21日の午前3時過ぎに、金剛らは台湾の沖でアメリカ海軍の潜水艦シーライオンに遭遇すると、その魚雷の攻撃を受けました。このときシーライオンは6発の魚雷を発射したとされ、内2発が金剛に命中しました。同じく魚雷1発が命中した駆逐艦・浦風は轟沈し、金剛も浸水が進んで徐々に船体が傾き、命中から凡そ2時間半後に沈没しました。
金剛は日本の戦艦として唯一、潜水艦の攻撃で撃沈された戦艦となりその戦歴を終えました。
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