軍人上がりの地政学者
カール・ハウスホーファーは、かの独裁者、ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーの政治思想に多大な影響を与えたとされる地政学者です。
地政学という分野は帝国主義下のイギリスにおいて創始された概念であり、当時の列強による植民地支配の現状を肯定するための理論と言うべきもので、ある種のイデオロギーでした。
ハウスホーファーは元はドイツ陸軍の軍人であり、第一次世界大戦においては少将の地位まで務めたほどに陸軍の第一線にあった人物でした。
第一次世界大戦後にミュンヘン大学において軍事学の教鞭を執ることになったハウスホーファーは、同大学内に地政学研究所を設けるなど、地政学の学者としても著名な人物となっていきました。
ヒトラーとの邂逅
ハウスホーファーは地政学と同時に東洋の秘教への強い関心も抱いており、1908年から2年の間ドイツ大使館の駐在武官として日本に滞在した際には、禅についての考察も行ったと伝えられています。
更に日本に赴く前にはインドやチベットに立ち寄って、ラマ僧から秘伝の教えを請うたと自ら述べていました。
ハウスホーファーがヒトラーとの知己を得たのは1923年のことで、ヒトラーがミュンヘン一揆の失敗で刑務所に投獄されていたときでした。
このとき2人の間を仲介をしたのが後のナチ党副総統ルドルフ・ヘスであり、ヘスがハウスホーファーのミュンヘン大学時代の教え子であったことがきっかけでした。
我が闘争の共同執筆
当時刑務所に収監中であったヒトラーの元へハウスホーファーは頻繁に赴き、現状のユダヤ人による支配からドイツを解放し、且つゲルマン民族が世界を統べるべきであるという持論を熱心に説きました。
加えてヒトラーの著書「我が闘争」の共同執筆者となり、ヒトラーの政治活動に関する顧問を務めました。
ハウスホーファーは「生存圏」という概念を提唱し、現状において「生存圏」を保有していないドイツ人は、自らの生存を実現するため軍事的な領土の拡張を行うべきであると提唱しました。この思想は以後のナチス・ドイツの基本政策として反映されていきました。
ソ連との提携を提唱
前述の通り2年間日本に駐在した経験を持っていたハウスホーファーは日本通でもあり、日本に関する著作を著しています。
また同時に日本による満州の統治まではその必要性を容認しつつ、それ以上の中国大陸への進出は無謀であるという見解を示していました。
このため1937年の盧溝橋事件勃発によって上海から南京へと軍を進めた日本に対して、ハウスホーファーはその行為に反対する立場を表明しました。
更にハウスホーファーは、自らの地政学的な信条としてドイツと日本とは共にソ連と手を結ぶべきであると提唱しており、ヒトラーが独ソ戦を開始したことで決定的な見解の創始を生じることになりました。
地位を失った晩年
1944年に発生したヒトラーの暗殺未遂事件に、ハウスホーファーの実子であるアルブレヒト・ハウスホーファーが関与しており、アルブレヒトはナチス当局によって処刑されました。
これに加えてアルブレヒトの妻がユダヤ系であったことなどから、ハウスホーファー自身もドイツにおけるすべての社会的地位を剥奪されることになりました。
1945年5月にドイツが敗北した後、ニュルンベルク裁判においてハウスホーファーを戦争犯罪人として被告にする動きもありましたが、既に高齢で病気の状態にあったことや、ナチス政権への直接的な関与の証明が難しい点などから実現には至りませんでした。
ハウスホーファー自身は1946年に服毒自殺を図り、これに失敗したため最終的には自ら割腹して果てたとも伝えられています。
この自殺の原因についても定かではありません。
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