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引間城へ行ってみた [豊臣秀吉&徳川家康ゆかりの日本最強のパワースポット観光」

引間城へ行ってみた[豊臣秀吉&徳川家康ゆかりの日本最強のパワースポット」

写真:引間宿と引間城(浜松城公園(静岡県浜松市中区元城町)の案内板)※写真は全て本人撮影

こよひは、ひくまのしゅくといふ所にとゞまる。こゝのおほかたの名をば濱松とぞいひし。(阿仏尼『十六夜(いざよい)日記』の建治3年(1277年)10月22日条)

遠江国敷知(ふち。淵、敷智)郡浜津(浜松)郷(現在の静岡県浜松市の市役所付近)の中心地は、「ひくま」(引馬、引間、曳馬、曳駒、疋馬)という東海道の宿場町、商業都市でした。鎌倉時代後期の紀行文日記である阿仏尼の『十六夜日記』に、「今夜は引馬宿に泊まる。この宿場町一帯の名を浜松と言う」(現代語訳)とあります。

引馬城略史

平安末期から「浜松荘」があり、室町時代には、領主・吉良氏の被官・巨海(こみ)道綱(大河内宗綱の子。三河国幡豆郡巨海(愛知県西尾市巨海町)を本貫地とする大河内氏の支流・巨海氏の養子)が荘官として派遣されて築いたのが引馬城(静岡県浜松市中区元城町古城)だとするのが通説ですが、巨海道綱は川匂(かわわ)荘(静岡県浜松市南区河輪町)の荘官であって、居館は、頭陀寺西隣の領家(静岡県浜松市中区領家)にあったとも言われ、はっきりしません。

写真:浜松市の荘園(浜松市博物館)

※『日本城郭大系9 静岡・愛知・岐阜』(新人物往来社)
築城者・創築年代については諸説があり、どれが正しいかについてにわかに断定することはできないが、いまそれを整理してみるとつぎのようになる。
(1)三善将連(または為連)の命をうけて、久野佐渡守の末子越中守が築いた。永正年間(一五〇四-二一)。
(2)今川貞世(了俊)の孫貞相が敷知・豊田・周智の三郡を領し居城とした。
(3)三河国臥蝶の城主大河内備中守貞綱が築いて居城とした。永正年間。
(4)巨海新左衛門尉が浜松荘に在地し、城を構えてこれに拠った。
久野越中守が築いたとする(1)の考え方は、すでに『浜松御在城記』などにも紹介され、いわば引馬城築城に関しての定説となってきたものであるが、残念なことに、三善将連(または為連)にしても久野佐渡守越中守にしても、浜松の地との関連が明らかにはされておらず、にわかにこれが妥当であると論ずるだけの根拠に欠ける。
また、(2)の今川貞相説は、今川貞相の本拠がむしろ磐田・袋井のほうであることによって否定されようし、典拠が『応仁武鑑』という俗書であることも、説得力に欠ける。
(3)の大河内貞綱説は、大河内貞綱が斯波氏の被官として浜松荘におり、今川氏と再三戦っていることによって首肯されるが、史料的な裏付けにやや欠ける。
そこで(4)の巨海新左衛門尉ということになるが、連歌師柴屋軒宗長の『宗長手記』に、「吉良殿のうち巨海新左衛門尉、此庄を請所にして在庄。よき城をかまへ、狩野と申合、入部を違乱す」とあり、「此庄」とは浜松荘のことであり、吉良氏の命をうけた巨海新左衛門尉が引馬城を築いた可能性は大である。

遠江国の守護には、今川氏に替わって斯波氏が就任していましたが、今川氏親(今川義元の父)が遠江国へ侵攻しました。この時の引間城主・大河内貞綱(巨海道綱の兄)は、斯波義達や弟・巨海道綱と共に戦いますが、永正14年(1518年)8月19日、引馬城が落城すると、大河内貞綱・巨海道綱は自害(斯波義達は出家し尾張国へ帰国)し、今川氏親は、被官の飯尾(いのお)賢連(かたつら)を城主として引馬城へ入れました。

※飯尾賢連─豊前守乗連─豊前守連竜(致実、乗竜、政純)─辰之助(義広)

永禄3年(1560年)、今川義元が織田信長に敗れると、遠江国の国衆の中には、今川氏を離れ、徳川氏や武田氏に付く者が現われ、「遠州忩劇」「遠州錯乱」と呼ばれる状態になりました。引馬城の飯尾豊前守連竜(つらたつ)は、今川氏に背いて徳川氏についたので、今川氏真は永禄6年(1563年)に引馬城を攻撃しますが落とせず、忠臣・新野親矩や中野直由を失いました(異説あり)。そこで、今川氏真は、策を弄し、飯尾連竜を駿府(静岡県静岡市)に呼んで誅殺しました。

永禄11年(1568年)、徳川家康は、遠江国へ侵攻すると、引馬城(古城)に入り、「引馬」は縁起が悪いとして、「引間」と改めました。また、古城の西側に築いた本城を「浜松城」と名付けたので、「浜松」という地名が広まり、「引間」とは呼ばれなくなっていきました。

※「引馬」は「浜松」の一部である。徳川家康は、「これからは『引馬』を『引間』と書くことにする」とは言ったが、「『引馬』を『浜松』と名付ける」(『引馬』は使わず『浜松』を使う)とは言っていない。

※静岡県教育委員会『静岡県の中世城館跡』(1981年)
創築者、創築年代とも定かでないが、『宗長手記』の伝える吉良氏被官巨海新左衛門尉創建説が、もっとも穏当だとされている。その後、今川氏の支配下に入り、その被官たちが、代々城主を務めたであろうが、その中で記録に名を残したのは、小原肥前守と飯尾豊前守である。かれらは浜松庄と運命をともにしたといえよう。

引間城跡

引間城へ行ってみた[豊臣秀吉&徳川家康ゆかりの日本最強のパワースポット」

写真:浜松城の天守から見た東照宮(引馬城)

写真:引馬城(浜松市博物館。右が北)

引間城へ行ってみた[豊臣秀吉&徳川家康ゆかりの日本最強のパワースポット」

写真:引間城の中心部

引間城へ行ってみた[豊臣秀吉&徳川家康ゆかりの日本最強のパワースポット」

写真:玄黙(元目)口案内板

引間城へ行ってみた[豊臣秀吉&徳川家康ゆかりの日本最強のパワースポット」

写真:下垂(霜垂)口案内板

引馬城(「曳馬城」という表記もあるが、現在、浜松市では、創建時は「引馬城」、徳川家康の入城後は「引間城」「古城」で統一)は田の字型の城で、玄黙寺があった北の出入口(搦手)が「玄黙(げんもく。元目)口」、南の出入口(大手)が「下垂(しもたれ。霜垂)口」になります。

写真:「曳馬城跡」碑と案内板

「引間城本丸跡
鎌倉時代の浜松は、「ひきま(ひくま)」と呼ばれる町でした。現在の馬込(まごめ)川が天竜川の本流にあたり、西岸に町屋が発達しました。「船越」や「早馬(はやうま)」はこの頃の地名です。戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれます。歴代の城主には、尾張の斯波方の巨海氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏などがおり、斯波氏と今川氏の抗争の中で、戦略上の拠点となっていきました。この時代の浜松には、同じ今川方で、少年時代の豊臣秀吉が初めて仕えた松下加兵衞(頭陀寺城城主)がいました。松下氏に連れられて、秀吉は引間城を訪れています。徳川家康が最初に居城としたのもこの城です。元亀3年12月(1573)、武田信玄との三方ヶ原の戦いに、家康は「浜松から撤退するくらいなら武士をやめる」という強い覚悟で臨みましたが、引間城の北口にあたる「玄黙(玄目)口」へ撤退したと言われています。このころまで引間城が重要な拠点だったことがわかります。その後、城主となった豊臣系の堀尾吉晴以降、浜松城の増改築が進むにつれ、引間城は城の主要部から外れ、「古城」と呼ばれて米蔵などに使われていました。明治19年、旧幕臣・井上延陵が本丸跡に家康を祭神とする元城町東照宮を勧請し、境内となっています。

平成27年1月 監修:静岡文化芸術大学 磯田道史教授」(現地案内板)

東照宮の二公像

写真:東照宮の二公像

「若き日の家康・秀吉二公と引間城

元城町東照宮の建つこの地は、浜松城の前身・引間城の本丸跡です。戦国時代のこの城には、後に天下人となる2人の武将が相次いで訪れています。天文20年(1551年)、尾張の農村を出た少年時代の豊臣秀吉公(当時16歳)が今川家臣の居城であった引間城を訪れ、頭陀寺の松下氏に仕えるきっかけを得たとされています。元亀元年(1570年)には、今川家から独立を果たした徳川家康公(当時29歳)が遠江を平定し、この城に住み、浜松という地名も定めました。この城は期せずして、2人の天下人が戦国武将としての一歩を踏み出した運命の地となりました。ここ引間城跡の東照宮と二公像は「出世の街 浜松」を代表するまさに聖地といえます。
秀吉公(1536~1598)
浜松時代 1551(16歳)~1553(18歳)
家康公(1542~1616)
浜松時代 1570(29歳)~1586(45歳)

監修 浜松市文化顧問 磯田道史」(現地案内板)

写真:豊臣秀吉公像(東照宮の二公像)

「浜松時代の少年豊臣秀吉公像 16才

1551年(天文20年)
初めて武家奉公がかなったときの少年秀吉公のお姿
武士になろうとして、尾張の国より針の行商をしながら主君を捜す旅に出た。浜松の馬込川ほとりで、浜松の豪族松下嘉兵衛に出会い、ここ引間城(元城町東照宮)までつれてこられた。引間城主飯島家の宴会で、猿そっくりの口元で猿の物真似をして栗を食べて気に入られ、松下家へ初めての武家奉公の夢がかなった。『太閤素生記』。
浜松市南区頭陀寺の松下屋敷で、武家修行を積み、よく働き、良く学んだ秀吉公は16才~18才の3年間、この浜松で過ごし成長していった。その後、松下家から退職金をもらい尾張へ帰った。そして織田信長公と出会い織田家中で出世をはたし、ついには天下人となった。

史学博士 磯田道史」(現地案内板)

※『太閤素生記』

太閣16歲、天文20年辛亥春中々村を出られ、父死去の節、猿に永楽1貫、遺物として置く。此銭を少し分け持て、清洲ゑ行、下々の木綿ぬのこを縫ふ大き成る針を調へ、懐に入、先鳴海迄来て此針を与て食に代る。又、針を以て草鞋に代る如、此針を路次の便となして、遠州浜松へ来らる。浜松の町はずれ、牽馬(ひくま)の川 と云辺に白き木綿の垢つきたるを著て立廻らる。其頃、遠江浜松の城守は、飯尾豊前と云て、今川家の幕下の者なり。又、近所、久能と云所あり。松下加兵衛と云者、小城の主なり。是も今川の幕下なり。故に久能より浜松ゑ至る道にて猿を見付、「異形成る者也。猿かと思へば人、人かと思へば猿なり。何国より来る何者ぞ。聞け」と人を以て問。猿が云。「吾は尾張より来れり」と。又、問。「幼少の者の 遠路、何事にて是迄来れる」と。云。「奉公、望にて来る」と云。立皈て、加兵衛に此旨を告る。加兵衛、笑て「吾に奉公すべきか」と又聞く。畏る由申、夫より浜松ゑ連行、豊前に対し、加兵衛が云。「道にて異形成る者を見付たり。猿かと見れば人、人かと見れば猿なり。御驚あれ」とて召出す。豊前が子共、幼き娘など出て是を見る。又、傍らの者など是を見て笑。皮の付たる栗を取出して之を与える。口にて皮をむき喰。口本、猿に均し。(後略)

(注)「久能」は「頭陀寺」の誤り。久野城は、徳川家康の関東移封により城主・久野宗能が下総国へ移ったので、松下之綱に与えられた。

※久野城見学パンフレット

http://www.city.fukuroi.shizuoka.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/71/kuno.pdf

写真:矢作橋の「出合之像」(愛知県岡崎市)

※豊臣秀吉が初めて仕えたのは、頭陀寺城主・松下嘉兵衛である。小説では、矢作橋で蜂須賀小六と出会ったとしているが、そもそも、矢作川に橋が架けられたのは慶長6年(1601年)であり、蜂須賀小六は天正14年(1586年)、豊臣秀吉は慶長3年(1598年)に亡くなっている。

写真:鎌研ぎ池(頭陀寺町の天白神社境内)

写真:目刺橋(東芳川に架かる橋)

写真:天白神社(静岡県浜松市南区頭陀寺町)

「豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎と言った少年の頃、この地を訪れ頭陀寺城主の松下嘉兵衛之綱に身をよせて天文20年3月(1531年)より天文22年4月(1553年)の間下僕として奉公した。この時馬草を刈るのに池のはたで鎌を研ぎ試し切りのために池に生えた葦の片方へ出ている葉のみを切ったのでそれから片葉の葦が生えるようになったという説が「遠州七不思議」のひとつとして残されている。また松葉でしゅり剣の練習をしたその松葉がメダカの目に刺さったので池には片目のメダカが見られるようになったとの言い伝えがある。天白神社は松下嘉兵衛之綱の守護神として天文2年(1533年)の頃祭祀された。藤吉郎も将来の武将を夢みて祈念したことであろう。」(現地案内板)

写真:磯田道史監修/JIRO(自由廊)制作「若き日の徳川家康公リアル3D像」(浜松城)

http://jiyuro26.jugem.jp/?eid=4552

「浜松時代の若き徳川家康公像 31才

1573年(元亀3年12月22日)
三方ヶ原合戦時に武田軍に立ち向かった時のご勇姿
家康公はここ元城町東照宮(引間城本丸)を居所とし、新たに浜松城を築いた。しかし、武田信玄公に領土を侵され、危険を案じた織田信長から「浜松を捨てよ」との命令が出た。そのとき家康公は「我もし浜松を去らば刀を踏み折りて武士を止むべし『武徳編年集成』」と言い放ち、命令を無視して踏みとどまり、戦国最強とうたわれた武田軍に挑み、この地より出陣した(三方ヶ原合戦)。しかし結果は大敗北。本社北東角の元目口にからくも生還した。
戦には負けたが、武田軍を城まで踏み込ませることなく、撤退させた家康公。今川家や織田家の命令をはなれ初めて自分の意思で戦い、浜松城を保って領民を守り抜いたお姿である。

史学博士 磯田道史」(現地案内板)

徳川家康とその祖父・松平清康に共通する特徴は、鷹の目のように大きく丸い目、「見つめられると吸い込まれそう」「見つめられると嫌と言えなくなる」金壺眼だったそうです。

※元亀3年は西暦1572年である。ところが、三方ヶ原合戦があった元亀3年12月22日は、西暦(グレゴリオ暦)1573年2月4日なので、三方ヶ原合戦があった年は、「元亀3年(1573年)」となる。

さて、引間城へ行かれた方の感想は、

・好評:「若き日の豊臣秀吉が3年間も浜松にいたとは知らなかった」「引間城が日本最大級のパワースポットだとは知らなかった」「出世できそう」
・悪評:「駐車場がない」(浜松城公園の駐車場から歩きましょう!)

といったところです。

浜松城周辺の見所

東漸寺

写真:鬼子母神堂の内部(東漸寺)

写真:飯尾豊前守の墓(東漸寺)

飯尾豊前守連竜のお墓は、2019年NHK大河ドラマ『いだてん』の主人公である田畑政治の生家近くの東漸寺(静岡県浜松市中区成子町)の鬼子母神堂(正しい表記は、「鬼」の一画目の点が無い)の横にあります。

東漸寺は、法華宗陣門流東海別院である常霊山大悲院本興寺(静岡県湖西市鷲津)の日礼上人開山、飯尾豊前守開基のお寺です。長い間、子に恵まれなかった飯尾豊前守が、日礼上人の言葉に従い、子授けの神・鬼子母神を信仰すると、子を授かり、その祝に大凧をあげたのが「浜松まつり」のルーツだとする説があります。

http://www.fujinokunibunkashigen.net/resouce/main.php?search=area&mode=detail&article=2117

飯尾連竜は、徳川氏への内通、あるいは、内通しているという讒言(嘘)により、駿府で誅殺されたようですが、その前後の状況には、諸説あってよく分かりません。

1つの説では、井伊家家老・小野政次の讒言により、今川氏真は、井伊谷に住んでいた忠臣・新野親矩(新野家は今川家の分家)や井伊家宗主代行・中野直由に引馬城を攻めさせますが、2人共討たれました。(この結果、井伊家は井伊直虎が宗主になりました。)そこで今川氏真は、「讒言(嘘)であった」と和解し、お詫びに娘を飯尾連竜の子・辰之助に与えるとして、飯尾連竜、子・辰之助、妻・お田鶴の方を駿府に呼び、婚礼の最中に3人を討ちました。(この時、お田鶴の方は、白粉を滑り止めとして薙刀に塗り、10名以上倒し、その鬼神の如き戦い様は「駿府の小路の戦い」と呼ばれたとそうです。また、新野親矩は、引馬城攻めではなく、この戦いで、駿府で討たれたとも。)こうして飯尾家は亡び、引馬城は家老の江間時成・泰顕兄弟が治めていたのですが、徳川家康が遠江国に侵攻してきて、引馬城は簡単に落ちたとします。

他の説では、小野政次の讒言により、今川氏真は、飯尾連竜を駿府に呼んで誅殺したとしています。この結果、お田鶴の方(鵜殿長持の娘で、徳川家康側室・西郡局とは姉妹。徳川家康正室・築山殿とは母同士が義理の姉妹)は女城主となり、幼馴染の徳川家康が遠江国に侵攻した時には薙刀を持って戦ったそうです。

椿姫観音

写真:椿姫観音

徳川家康の遠江国侵攻時、引馬城の女城主・お田鶴の方は、18人の侍女と共に打ち出て戦いましたが、討死し、侍女たちと共に「御台塚」に埋められました。徳川家康の正室・築山殿は、親戚であるお田鶴の方の死を哀れみ、御台塚の周囲に100本以上の椿を植えたことから、「御台塚」は「椿塚」、「お田鶴の方」は「椿姫」と呼ばれるようになりました。(学者は、築山殿は岡崎にいて、浜松にはいなかったとします。)

昔見た演劇では、今川義元が両脇に2人の美少女、亀姫(後のお田鶴の方)と鶴姫(後の築山殿)を常に置き、人質として駿府にいた竹千代(後の徳川家康)は、亀姫と相思相愛でしたが、自分が選ばれなくてプライドを傷つけられた鶴姫は、今川義元に頼んで、好きでもない竹千代と結婚しました(亀姫から竹千代を奪って優越感に浸りました)。徳川家康の遠江侵攻の引馬城攻めでは、徳川家康は普済寺、築山殿は西来院に陣取り、徳川家康が引馬城に乗り込むと、お田鶴の方が出てきて一騎打ちとなり、最後はお田鶴の方が徳川家康の一撃を薙刀で受け止めると、素手で刀を掴み、自分の頸動脈に当てて自害しました。壮絶な最期でした。泣けました (ノД`)。(徳川家康と築山殿の仲が悪くなったのは、徳川家康が長女に「亀姫」(初恋の相手の名)と付けたことからだとか。まぁ、全て演劇や小説での設定ですけどね。)

「史跡椿姫観音堂由来記

この御堂は、椿姫観音堂と言い御堂の中には、椿姫観音(第四代引馬城主飯尾豊前之守乗竜 正室 お田鶴の方)が、祭られています。戦国時代、この地方は、今川家の領地として、今川家 重臣、飯尾豊前守乗竜が支配しておりましたが、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れ戦死すると、今川家の力は、急速に衰え衰退が始まります。今川義元から氏真に代が替わると、徳川家康は、今川家の弱体に目を付け、徳川方に付くよう何度も要請する。城内は今川派、徳川派に分裂、今川氏真は、乗竜が、徳川側に付いたとし、今川家に対する謀反だ! として 引馬城に攻め込む。 が 容易に陥落しなかった。そこで氏真は、策を講じ和睦と見せかけ乗竜を駿府城に呼び出し暗殺する。永禄8年(1565年)。引馬城に残されたのは、城主乗竜の嫡男 義廣 その母お田鶴の方(後に乗竜亡き後、幼い義廣に代わり第五代引馬城主となる)であった。又とない絶好の時、 家康は、大軍で引馬城に攻め込む。曳馬城は小城ではあるが地理的にみてどうしても手に入れたい城である。軍事力に勝る家康軍を相手に、大奮闘の兵、 しかし武力に勝る家康軍の前には・・・落城寸前のさなか緋縅の鎧に白柄のなぎなた、丈なす黒髪に純白の鉢巻きのお田鶴の方、それを取り巻く、白鉢巻き、たすき掛け、刃を手にした18人の侍女、 主君お田鶴の方を守り壮絶な戦い、引馬城の最後を飾る戦いであった。この辺り一帯がその戦場となり力尽きたお田鶴の方は侍女18名と共に戦死した。永禄11年12月24日、の事でした。女の身でありながら、あっ晴れな最後であり不憫である。家康は、この地に、お田鶴の方と侍女18人の亡骸を手厚く葬り塚を築き祠を建てました。家康の正室築山御前も塚の周りに 百本余りの椿の木を植え、供養を営みました。椿は毎年、美しい花を咲かせ付近の人々この塚を(御台塚)と呼び追悼供養を捧げました。その場所はこの御堂より5m位西北、田の中に十坪余りの台地があり其の中に祠と2本の塔場が建ってた。と云い伝えられています。元亀元年(1570年)徳川家康は岡崎城から遠江国引馬へ本拠地を移し、城名、地名ともども浜松と改めた。家康は17年間浜松を居城とした。天正14年(1586年)本拠地を 浜松から駿府に移した。この御堂は昭和19年に建立されましたが、戦時中、浜松大空襲で焼け落ち、昭和27年に再建したものである。近年は御堂に観音像を祭り、椿姫観音として、 お田鶴の方の遺徳を偲び、冥福祈り、元浜町の更なる発展と町民の平和な生活を願い毎年11月23日には町内を挙げて追善供養をしています。

浜松祭りの起源

この御堂に祭られているお田鶴の方(通称椿姫、第5代引馬城主)と飯尾豊前守乗竜公(第4代引馬城主)の嫡男 義廣公 の誕生を城主はじめ城下の人々は一同にこれを祝い、特に入野村の佐橋甚五郎なる者が嫡男の名前 義廣 と書いた大凧をお城近くで揚げ、奉祝した。これが基となり、この地方では、家で嫡男が誕生すると、大凧を揚げ、町をあげてお祝いをする風習が生まれた。これが浜松祭の始まりと言われています。」(現地案内板)

(注)「椿姫観音」の案内板では、飯尾連竜を「乗竜」、辰之助を「義広」としています。

以上で引間城の攻略終了!

さて、次はどの城を攻めようかな。

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