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高天神城へ行ってみた【続日本100名城 観光】

高天神城へ行ってみた【続日本100名城】

「高天神城城址」碑 ※写真は全て本人撮影

──みどり木 踊る 山の上 高天神城よ 何想う♪

高天神城へ行ってきました。

寒かった。そして、「遠州の空っ風」は強かった。

木々がざわめき、「しっかりレポートしろよ」と鼓舞されました。

周辺案内マップ「今蘇る高天戦国ロマンの里」(大東北公民館)

高天神城(静岡県掛川市上土方嶺向)は、掛川と海(太平洋、遠州灘)の間、やや海寄りにあり、遠江国が一望できます。高天神城は、「高天神社がある高天神山(「鶴翁山」とも)にある山城」であり、「高天神社」の社名の由来については、「続日本100名城」のスタンプが置いてある大東北公民館(静岡県掛川市下土方267-1)の大きな周辺案内マップ「今蘇る 高天戦国ロマンの里」に「祭神は高皇産霊(たかみむすひ)神、土師(はじ)氏の祖天菩毘(あめのほひ)命とその後裔菅公を合祀してある。(中略)社名も高皇産霊の高と天神様の天の組み合わせから来ている」とあります。他に「高い場所に祀られている天神社」の意とする説もあり、はっきりしません。

高天神社の御祭神(高天神社)

天菩比命─建比良鳥命…野見宿禰【土師氏】…【菅原氏】道真

天菩比命(あめのほひのみこと)の子が遠江国造の祖・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)で、相撲の祖・野見宿禰(のみのすくね)は、天菩比命の14世孫です。野見宿禰は、天皇の崩御の際、殉死の代わりに「埴輪」を埋めることを提案したことから、「土師」姓を与えられ、後裔氏族である土師氏の一族が大和国菅原村に住み、菅原氏を名乗りました。菅原氏の中では、天満大自在天神(通称:天神様、天満宮)こと、菅原道真(通称:菅公)が有名です。

高天神城がある遠江国城飼(紀甲、城東)郡土方郷の産土社は、式内・比奈多乃神社(静岡県掛川市上土方落合日向ヶ谷)で、ご祭神は、建比良鳥命です。土方郷は、全国の官社(式内社)が載せられた『延喜式』の編纂時には土師氏の領地で、高天神山の山頂に土師氏の祖神・天菩比命、山麓(日向ヶ谷)に天菩比命の御子神・建比良鳥命が祀られ、後に修験者の藤原鶴翁が高天神山に入って高皇産霊神を合祀し、さらに土師氏の後裔・菅原道真を合祀して、高天神城の鎮守社「高天神社」としたのでしょう。

遠江国城飼郡には11郷ありましたが、中央政府との結びつきが薄かったのか、式内社は次の2社しかありません。

《遠江国城飼郡の式内2社》

①奈良神社(藤原氏の氏社。後の二俣氏、横地氏関連の神社)
・論社:春日神社(静岡県菊川市上平川字春日30)
・論社:藤谷神社(静岡県菊川市東横地1221)
②比奈多乃神社(土師氏の氏社。後の土方氏関連の神社)
・論社:比奈多乃神社(静岡県掛川市上土方落合837)
・論社:高天神社(静岡県掛川市上土方嶺向2650)

鶴翁山高天神城略年表(高天神城)

松本亀次郎の高天神歌碑「もろ羽張り 鶴のそら飛ぶ姿かな」

高天神城の築城については、

・延喜12年(912年) 藤原鶴翁が高皇産霊神を祭祀
・治承4年(1180年) 井伊直孝(日向ヶ谷井伊氏)が築城
・建久2年(1191年) 土方義政(土師氏後裔の土方氏)が築城
・応永23年(1416年) 今川了俊(今川氏)が築城
・文安3年(1446年) 福島基正(福島(九島、久島、櫛間)氏)が築城

など諸説ありはっきりしませんが、史実は、「応永23年(1416年)に、高齢の今川了俊ではなく、今川範政が築城し、山内玄蕃正を城主として入れた」であり、今川家臣・福島(くしま)基正は第2代城主だそうです。(この今川時代の史料には、「高天神城」ではなく「土方城」とあり、同一の城ではなく、別の城だとする説もあります。)

《高天神城の歴史》

①今川時代 築城(城主は山内氏→福島氏→小笠原氏)

②徳川時代 「桶狭間の戦い」後、小笠原氏が松平(徳川)氏に寝返る。

・第1次 高天神城の戦い 小笠原長忠 vs 武田信玄

・第2次 高天神城の戦い 小笠原長忠 vs 武田勝頼

③武田時代 「長篠の戦い」後、城主(城代)は岡部長教に交代

・第3次 高天神城の戦い 岡部長教 vs 徳川家康→廃城

①今川時代

福島基正─正成─綱成

福島基正の子・正成は、大永元年(1521年)11月23日の「上条河原の戦い」で武田軍の原虎胤に討たれました。(この時、弁之助(後の福島綱成)は7歳で、小田原に逃げました。)

「花蔵の乱」(天文5年(1536年)の今川氏のお家騒動)で敗れた福島氏に代わって城主になったのは、今川氏に服属した土豪・遠江小笠原氏(「高天神小笠原氏」とも)です。

②徳川時代

小笠原長高─春義(春儀・春茂)─氏興(氏清)─長忠(氏助、信興)

永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」で今川氏が敗れると、城主・小笠原氏は徳川家康の家臣となりました。

獅子ヶ鼻砦登山道入口

国安河原(国安橋)

元亀2年(1571年)2月、武田信玄は、2万とも2万5千ともいわれる大軍を率いて甲斐国から出陣し、3月には塩買坂(現在の静岡県菊川市川上)に本陣を置いて、高天神城を落とそうとしたようですが、高天神城を見て、「城外に出ている城兵を城内に押し戻すだけでよい」と言ったので、「第1次 高天神城の戦い」と言っても、獅子ヶ鼻(鹿ヶ鼻。静岡県菊川市大石)と国安河原(菊川に架かる国安橋(静岡県掛川市菊浜)付近。川が3本に分かれるので「三俣」という)の2ヶ所で小競りあいがあっただけです。(この小競りあいですら、武田勝頼との戦いの誤伝で、戦いはなかったとも。)武田信玄が高天神城を落とさなかったので、この時から、「高天神城は、武田信玄でも落とせない難攻不落の城」「高天神を制せずして遠州を制することあたわず」と言われるようになりました。

惣勢山本陣跡(武田勝頼本陣地)

第2次 高天神城の戦い」は、天正2年(1574年)のことです。武田信玄の子・勝頼は、2万の軍勢を率いて、5月12日、高天神城を取り囲み、攻撃を開始しました。城主・小笠原長忠(氏助)は、伊賀曲輪にいた十数人の忍者のうちの1人・匂坂牛之助(向坂加賀半之助光行)を使者として、浜松城の主君・徳川家康に送り、援軍の派遣を要請しました。

徳川家康は、一昨年の「三方ヶ原の戦い」で武田軍に破れていますので、「1万を率いて救援に行っても、2万の武田軍には勝てない」として、織田信長に2万の援軍の派遣を求めました。

織田信長は、一向一揆の対処のために出陣が遅れ、1ヶ月後の6月14日に岐阜城から出陣し、6月17日に吉田城(愛知県豊橋市)に入り、「6月18日、高天神城、開城」の知らせが、19日に今切(浜名湖の南端)を船で渡ろうとした時に耳に入ったので、引き返したそうです。城主・小笠原長忠(氏助)の「高天神城、開城」の判断があと3日遅ければ、徳川・織田連合軍3万 vs 武田軍2万の戦いが、設楽原ではなく、高天神城で行われていました。

③武田時代

第3次 高天神城の戦い」は、徳川家康と、小笠原長忠(氏助)に代わって城主(城代)となっていた岡部長教(元信、真幸、元綱)との戦いです。岡部長教は、「桶狭間の戦い」の時は、鳴海城の城主(在番)だった今川氏の武将ですが、武田信玄の駿河侵攻の時に降伏して、武田氏に仕えていたのです。

徳川家康は、満更知らぬ仲ではない岡部長教に降伏するよう求めましたが、「今川、武田、さらに徳川と主君を変えていくのは武士の恥だ」と言って断ったので、徳川家康は、諏訪原城を落として高天神城への補給路を断つと、遠巻きに「高天神六砦」を築いて高天神城を取り囲み、さらに高天神城に近づいて、城の周囲に堀を掘って土塁を築き、1間(1.8m)間隔で武士を配置して、城中から誰も外に出られない状態にしました。いわゆる「兵糧攻め」です。(武田勝頼は、「第2次 高天神城の戦い」の時、高天神城を西から攻撃しましたが、武田時代の改修工事で西側の補強がなされ、攻撃が困難になっていたので、徳川家康は、兵糧攻めを選択したようです。)

天正8年庚辰の8月より、高天神への取り寄せ給ひて、四方に深く広く堀を掘らせ、高土居を築き、高塀をかけ、同塀には付もがりを結ひ、堀向ひには七重、八重に大柵を付させ、一間に侍一人づゝの御手当を成され、切っても出ば、其上に人を増し給ふ御手立を成されければ、城中よりは鳥も通わぬばかりなり。(大久保忠教『三河物語』)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992777/104

岡部長教は、天正8年(1580年)夏、主君・武田勝頼に救援を求めましたが、横田尹松からの戦況報告と進言があり、9月には、武田勝頼は「高天神城を救援しない」と決めました(『甲陽軍鑑』品第56)。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899828/250

仕方なく、岡部長教は、徳川家康に、「以矢文懇望」(矢文で「降参したい。遠江国内の武田方の高天神城、滝堺城、小山城を開城する」と懇望)しましたが、徳川家康は、軍監・水野忠重を通して、織田信長に「降参を認めるな」と言われていたので、岡部長教の要望を無視しました(天正9年(1581年)1月25日付水野忠重宛織田信長朱印状)。

※軍監:大将の側にいて軍事の監督をする職。合戦での働きを公正に評価したり、戦果を報告したりする目付でもあり、「軍目付け」「戦目付け」とも呼ばれた。

※1月25日付水野忠重宛織田信長朱印状(「水野家文書」)

切々注進状、被入情之段、別而祝着候。其付、城中一段迷惑之躰、以矢文懇望之間、近々候歟。然者、命を於助者、最前ニ滝坂を相副、只今ハ小山をそへ、高天神共三ヶ所可渡之由、以是慥意心中令推量候。抑三城を請取、遠州内無残所申付、外聞実儀可然候歟。但見及聞候躰ニ、以来小山を始取懸候共、武田四郎分際にてハ、重而も後巻成間敷候哉。以其両城をも可渡と申所毛頭無疑候。其節ハ家康気遣、諸卒可辛労処、歎敷候共、信長一両年ニ駿・甲へ可出勢候条、切所を越、長々敷弓矢を可取事、外聞口惜候。所詮、号後巻、敵彼境目へ打出候ハゝ、手間不入実否を可付候。然時者、両国を手間不入申付候。自然後巻を不構、高天神同前ニ小山・滝坂見捨候へハ、以其響駿州之端々小城拘候事不実候。以来気遣候共、只今苦労候共、両条のつもりハ分別難弁候間、此通家康ニ物語、家中之宿老共にも申聞談合尤候。これハ信長思寄心底を不残申送者也。
正月廿五日

信長(朱印)

水野宗兵衛殿

高天神城の兵糧が底を尽き、草木をかじって飢えを凌ぐ状態になると、城代・岡部長教は、城からうって出ることを決断し、城兵に酒を与えて訣別の宴を開きました。この時、徳川家康は、幸若与三太夫に「高館」を舞わせたそうです。

うって出た城兵は体力が衰えており、玉砕しました。城兵730余名の遺体で、徳川家康が掘らせた城の周囲の堀が埋まったそうです。

「岡部・板倉の碑」(岡部丹波守討死碑と板倉定重の墓)

◆参考サイト「高天神の歴史」(掛川市公式サイト)

http://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/life/gakusyubunka/rekishi/takatenjinrekisi/index.html

──高天神城の歴史が頭に入ったので、さて、登城です .((((*・o・)ノ Go Go♪

高天神城へ登城

高天神城想像図(南口駐車場)

「高天神保養休養林案内図」(井戸曲輪)

高天神城は、東峰に本丸、西峰に西の丸(高天神社があります)があり、鞍部(中央の低い部分)に矩(かね)曲輪がある「一城別郭」「連郭式山城」です。まさに松本亀次郎の「もろ羽張り 鶴のそら飛ぶ姿かな」の通りですが、私的には「2つの羽を広げて空を飛ぶ鶴」型というより、「クランク」状、「Hの字」型ですね (; ̄ー ̄A)

登城口には、南の大手(南口駐車場、トイレあり)と北の搦手(高天神社の参道。北口駐車場、トイレあり)があります。車で行く場合、北口駐車場は広く、南口駐車場は狭くて満車のことが多いので、皆さん北口駐車場に車を停めて、搦手門から登城されますが、今回は南の追手門から登りますよ~!

追手門(大手門)

本丸(奥の土塁は虎口跡)

本丸(東峰)に着きました。「高天神山」は、標高132m、比高約100mの山ですから頂上まで行くのに然程時間を要しませんが、それは整備された山道を歩くからであって、すぐ横は急峻な崖──簡単に攻略できる城ではないことが分かります ((;゚Д゚)); ガクブル

「高天神城跡略図」(鐘曲輪)

西の丸(西峰)へ向かいます。

鞍部の「矩(かね)曲輪」に詳しい「高天神城跡略図」がありました。「高天神城跡略図」には「鐘曲輪」と書いていますが、時を告げる鐘楼があったわけではありません。ここを直角に曲がると搦手門へ行けます。搦手門から登ってくると、ここで行き止まり(T字路)で、右(西峰)へ行くか、左(東峰)へ行くか選択しないといけません。(「かね」は「直角」の意です。城下町の直角に右に曲がり、また左へとクランク状に曲がる道を「矩手/曲手」(かねのて)と言います。「岡崎二十七曲り」(愛知県岡崎市)が有名ですね。)

かね井戸(井戸曲輪)

矩曲輪から西へ。「かね井戸」がある井戸曲輪へ。

井戸曲輪から西へ、鳥居をくぐって階段を登れば、高天神社がある西の丸(丹波曲輪)に着きます。井戸曲輪から右(北)へ曲がって進めば、武田軍の補強工事による見事な堀切が見られる「二の丸」「堂の尾曲輪」「井楼曲輪」と続きます。

「二の丸 堂の尾曲輪址
天正2年5月、武田勝頼来攻、包囲、6月28日猛撃、二の丸主将本間八郎三郎氏清、部下300騎を率いて此所の物見櫓に上り、城兵を指揮した。同日卯の刻(朝6時)武田方穴山梅雪の部下西島七郎右衛門、朝日に輝く氏清の武装を狙い、鉄砲を撃った。氏清、首の近くを撃たれ、本丸に運ばれ介抱を受けるも10時、行年28歳を以て絶命した。弟の丸尾修理亮義清、兄に代わり櫓にて指揮中、同日午の刻、狙撃により胸部を撃たれ即死した。行年26歳であった。墓碑は後裔本間惣兵衛が元文2年(1737年)に建てたものである。」(現地案内板)

西の丸(丹波曲輪)の高天神社

馬場平(奥が「甚五郎抜け道」)

「甚五郎抜け道」(通称「犬戻り猿戻りの険」)

高天神社の裏に「馬場平」があります。正しくは「番場平」で、番所(見張り所)が置かれていただけあって、見晴らしがいいです キョロ (。_。 ) ( 。_。) キョロ

馬場平から林の谷池へ下る道を「甚五郎抜け道」(通称「犬戻り猿戻り」)といいます。

「甚五郎抜け道
天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より西方約1000mの尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った。この場所を別名犬戻り猿戻りとも言う。」(現地案内板)

脱出に成功した横田甚五郎尹松(ただまつ)は甲府に戻り、武田勝頼に合戦の様子を伝えると、武田勝頼は感心し、

其身苦戦して手負いながら切抜かへる事、神妙なり

と褒められて、褒美に刀をあげようとすると、横田尹松は、

某此度敵の囲みを切り抜け帰るを『手柄なり』と御褒美に預かり候はば、却て末代までの瑕瑾に候へば返上仕候

と断ったので、勝頼はさらに感心したそうです。

※後日談:高天神城落城の翌・天正10年(1582年)、武田氏が滅亡すると、横田尹松は、徳川家康の家臣になりました。(武田氏の滅亡後、徳川家康は武田遺臣を召し抱え、井伊隊などに配属しました。)徳川家康は、高天神在城中に軍監・大河内政局に便宜を図ってくれていたことを感謝し、冷静な状況判断や報告が出来ることから軍監に任命したそうです。

──「冷静な状況判断や報告」とは?

武田勝頼が高天神城に向けて援軍を送ろうか、送らまいか迷っていた時に、横田尹松が武田勝頼に対して出した「兵力の温存のために、高天神城は捨てるべき」という書状により、援軍を送らなかったとか(『甲陽軍鑑』品第55・56)。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899828/248

しかし、高天神城の城兵のほとんどが武田直属の兵ではなく、駿河、上野、信濃国など、武田家に服従させられた先方衆であったので、この決断により、「武田勝頼は、身内(武田軍)は大切にするが、先方衆は粗末に扱う」という風評が広まって武田勝頼の人望(人気)が致命的に低下し、木曾氏、保科氏などの寝返りもあって、高天神城落城の翌・天正10年(1582年)、戦国最強といわれた武田氏は、滅亡しました。

大河内政局の石窟

横田尹松が面倒を見ていた軍監・大河内政局は、高天神城の石牢に閉じ込められていました。

「大河内幽閉の石風呂(石窟)
天正2年6月武田勝頼来政包囲、28日激戦酣となった。城主小笠原長忠遂に叶わず武田方に降り城兵東西に離散退去したが軍監大河内源三郎政局独り留り勝頼の命に服さず勝頼怒って政局を幽閉した。武田方城番横田尹松政局の義に感じ密かに厚く持て成した。
天正9年3月徳川家康城奪還23日入城し、城南検視の際牢内の政局を救出した。足掛8ヶ年、節を全うしたが歩行困難であった。家康過分の恩賞を与え労をねぎらい津島の温泉にて療養せしめた。政局無為にして在牢是武士道の穢れと思い剃髪して皆空と称した。後年家康に召されて長久手に戦い討死した。」(現地案内板)

天正2年6月から天正9年3月まで、足掛け8年も狭い牢屋に入っていて、救出されるも歩行困難。地元の津島温泉でのリハビリに成功すると、武士を捨てて出家したのに、徳川家康に呼び出されて長久手で討死──(現代の価値基準では)悲惨な人生ですね。「小牧・長久手の戦い」は、羽柴秀吉軍10万 vs 織田信雄・徳川家康連合軍2万とされていますから、徳川家康としては、猫の手、いや、坊主の手も借りたかったのでしょうけど ( ̄Д ̄; (大河内政局の価値基準では「僧侶として死ぬより、武士として死にたい。呼んでくれて嬉しい」なのかもですが。)

搦手門

さて、搦手門跡です。

「城の裏門に当り、城南から出て来る者を搦め捕る意味からこの名がある。元亀から天正2年にかけて、渡辺金太夫照が大将として城兵210余騎を率いて守備した所である。」(現地案内板。「城南」は「城内」の誤り)

派手な指物で有名な「姉川七本槍」の渡辺金太夫照(きんだゆうてらす)は、今川時代からの城兵で、元亀2年(1571年)に武田信玄が攻めてきた時、大将として城兵250余騎で搦手門を固めたそうです。天正2年(1574年)の高天神城開城後、城主・小笠原長忠と共に武田軍に属し、天正10年(1582年)3月、高遠城で討ち死にしました。

以上です。

◆参考サイト「高天神城跡」(掛川市公式サイト)

さて、高天神城へ行かれた方々の感想は、

・好評:「よく名前を聞いていた城。実際に行って堅城だと実感できた」「標識が多くて分かりやすかった」
・悪評:「石垣の無い『土の城』であることが残念」「復元された構造物があると良い」(模造天守は、天神様の怒りなのか、雷が撃破!)

といったところです。

高天神城周辺の見所

城郭、砦

「高天神城攻防城砦図」(高天神城現地案内板)

【徳川家康が築いた「高天神六砦」(実は、20以上ある;)】
・三井山砦(静岡県掛川市大坂三井) 酒井重忠250
・中村城山砦(静岡県掛川市中) 大須賀康高250
・獅子ヶ鼻(ししがはな)砦(静岡県菊川市大石) 大須賀康高250
・火ヶ峰(ひがみね)砦(静岡県掛川市下土方と毛森中方の境) 大須賀康高250
・能ヶ坂(のがさか)砦(静岡県掛川市小貫と下土方の境) 本多康茂500
・小笠山砦(静岡県掛川市入山瀬) 石川康道500

※兵糧攻めを選択した徳川家康はじっくりと構えていた。「能ヶ坂」は、「能が舞われた砦の近くの坂」の意だという。また、徳川家康は、幸若与三太夫を連れてきており、決戦の前夜、幸若与三太夫に徳川家康が「悲壮感溢れる舞を舞え」と命じると、幸若与三太夫は、「高館」(源義経の高館(衣川館、判官館)での最期を描く幸若舞)を舞い、敵、味方共に鑑賞し、涙したという。

屋敷、戦場

渥美源五郎屋敷跡(静岡県掛川市上土方嶺向)

「首切り坂」の「渥美源吾供養塔」(静岡県御前崎市佐倉)

高天神山の山麓には、渡辺金太夫照の屋敷跡(渡辺池畔)や、「首取源五」こと渥美源五郎の屋敷跡(嶺向公民館西隣の土塁に囲まれた個人宅)があります。

「徳川・織田方小競り合いの跡(首切り坂)

天正6年11月(1578年)横須賀城徳川方の渥美源五郎勝吉、福岡太郎八ら数名が、高天神城武田方の兵糧集積地である相良城の様子を探って地頭方から宮内町を過ぎ桜ヶ池に差しかかった時、これまた横須賀城を探って帰る武田方斥候3騎と20人程の徒歩兵に出会った。徳川方の渥美と福岡両名の敏速な対応で武田方は逃げ場を失い、慌てうろたえる最中に渥美氏が早業で武田方の馬上の2人と徒歩兵4人を切り殺した。武田兵の遺骸は土地の者によって埋葬された。徳川家康は、渥美源五郎勝吉らの知恵と武勇を激賞したと言われている。なお、地元の人たちはこの場所を昔から首切り坂と呼んでいる。」(現地案内板)

私が知っているのは「首切り坂」ではなく、「首取り坂」「首取源五」ですけど・・・麦搗歌にも

国と天下は上様とらる。渥美源五は首取源五♪

兎角天下は上様とらる。渥美源五は首取源五♪

とあります。(上の「高天神城攻防城砦図」にも「首取坂」とあります。)

※相良城(静岡県牧之原市相良)は、相良氏が築き、武田勝頼や田沼意次が改修した城です。平成31年(2019年)には牧之原市で、無料の講演会など、複数の「田沼意次侯生誕300年記念事業」が実施されます。

以上で高天神城の攻略終了!

さて、次はどの城を攻めようかな。

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城田涼子

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