単刀赴会(たんとうふかい)とは
214年、劉備は益州(えきしゅう)を奪取して念願だった自身の地盤となる領地を手に入れる。
しかし、それと同時に呉の孫権陣営と荊州(けいしゅう)の統治を巡る問題が発生する。
益州を手に入れる前の劉備は本拠地と呼べるものがなく、荊州は劉備が益州を手に入れるまで孫権から「借りる」という形で治めていた。
荊州を巡って劉備と孫権の間で交戦状態となった状況を収拾すべく関羽と魯粛(ろしゅく)が会見し、最終的には劉備側が折れて長沙、桂陽、零陵の三郡を譲渡する事になる。
演義でも劉備は孫権に領地を譲渡しているが、この場面に於ける「敗者」であり、正史では出番の少ない関羽のために「単刀赴会(たんとうふかい : 刀単つで会に赴く)」という名馬面が作られている。
今回は、正史と演義の両面から単刀赴会を比較し、双方の描かれ方の違いと、キーパーソンになった魯粛の実像に迫る。
劉備が荊州を手に入れるまで
劉備と孫権がここまで揉める事になったきっかけとして、まずは荊州の重要性から解説する。
荊州は中国の中央部にあり、立地的に見ると各地へ繋がる重要拠点だった。
また、益州(蜀)を狙っていた劉備から見ると、益州だけだと山岳地で攻める時に苦労するが、開けた土地である荊州を領有していれば攻撃の拠点として使う事が出来た(逆に言えば荊州を失ったら進攻ルートがなくなってしまう)ため、荊州は曹操や孫権以上に重要だった。
演義での劉備は、義の観点から劉表から荊州を譲ると言われても断り、正史でも劉表の死後に後を継いだ劉琮から荊州を奪ってしまうよう部下から進言されてもやはり却下している。
正史の劉備は演義とは違うリアリストとしての姿が描かれているため、今後の拠点を手に入れるチャンスを自ら捨てる事に疑問を感じるが、荊州は地元豪族の力が強く、統治するのが簡単ではなかった。
そして、劉表が亡くなった208年は曹操が荊州に進攻していた時期であり、領地を受け継いで曹操と当たろうもしても配下を纏められない状態では統治どころでなかった。
あくまで劉備に対して好意的な解釈になるが、劉表の死とともに荊州を受け継ぐのはタイミングとして適切ではなく、進攻する曹操軍からすぐに逃げている事から考えると、劉備の判断は正しかった。
その後、孫権と手を組んで赤壁の戦いで曹操軍を撃ち破ると、劉備は荊州を手に入れるために動き出す。
曹操が撤退した隙を突いて劉備は荊州の南部を手に入れると、劉表の長男である劉琦を荊州牧に立てる。
だが、病弱だった劉琦が程なくして病死したため、その後を劉備が継ぎ、回り道をしたもののようやく自分の拠点となる地盤を手に入れた。
荊州を巡る戦争勃発
荊州を手に入れてから劉備の快進撃は続き、214年には益州を手に入れて第三勢力としての立場を確固たるものにする。
ここまで順調に領地を拡大して来た劉備だが、第三勢力として劉備が躍進する事を恐れた孫権からの横槍が入る。
孫権は「赤壁の勝利は孫呉の力によるものである」と主張し、赤壁の戦いの「戦果」として劉備から割譲を迫る。
演義では「益州を取るまで荊州をお借りしたい」などあの手この手で孫権の追及をかわしているが、正史の劉備は益州を手に入れた後に「涼州を手に入れたら荊州を再分割する」という実現がほぼ不可能な条件を出し、堪忍袋の緒が切れた孫権がとうとう荊州に軍を出して、両者は交戦状態となってしまう。
戦闘の末に長沙、桂陽、零陵を奪われた劉備と関羽は領地を奪還すべく軍を出すが、戦況は膠着状態となる。
これ以上戦闘が続けば同盟を結んでいた劉備と孫権の関係が崩壊しかねなくなり、事態を収拾すべく魯粛と関羽の間での会談が行われる事になった。(戦闘から交渉へと話が進んだ一因として、曹操が漢中へと進攻して来たため劉備が一刻も早く益州に戻らざるを得なくなった事もあった)
正史と演義の両面から見る単刀赴会
関羽と魯粛はお互いの兵を百歩離れたところに待機させ、それぞれ刀を一つだけ持って交渉の席に着いた。(公平性のアピールとはいえ、一対一なら魯粛にまず勝ち目のない力関係であり、関羽が魯粛を斬ったらどうするつもりだったのか?という事は考えてはならない)
魯粛は後で返すと言いながら一向に荊州を返さない劉備の態度を責め、関羽はそれに反論する事が出来なかった。
正史ではいいところなく魯粛にやり込められる関羽だが、演義では「荊州は劉表から受け継いだ土地であり、劉備は荊州を治めるに相応しい人徳を持っている」と軍神らしい威圧感で魯粛を威嚇し、挙げ句の果てには帰る際に酔ったふりをして魯粛を人質にしながら船に乗るまで離さないなど、久々の出番に大ハッスルを見せてくれる。
関羽ファンも久し振りの出番と活躍に大満足の名場面だが、これは正史で出番の少ない関羽を活躍させるために作られたフィクションであり、関羽を神格化している演義ならではの「演出」である。
単刀赴会から見る魯粛の実像
話を交渉に戻すと、口約束とはいえ劉備から「目的が果たされたら荊州を渡す」という言葉を引き出したのは魯粛であり、冷静な視点から見て関羽と魯粛の力関係で強いのは魯粛の方だった。
また、劉備には魯粛に逆らえない「理由」があった。
曹操から荊州を追われて逃げて来た弱小勢力に過ぎない劉備を受け入れ、同盟を結ぶよう働き掛けたのは魯粛だった。
諸葛亮の天下三分の計ではないが、魯粛も曹操を牽制するための第三勢力を必要としており、劉備にはその第三勢力として生き延びて貰う必要があった。
それ故、劉備が漁夫の利を得る形で荊州を手に入れても何も言わず統治を認め、益州を手に入れるまで我慢強く待っていた。
地盤のない、流浪の弱小勢力だった劉備が地盤を手に入れてから第三勢力として躍進出来たのは魯粛のお陰であり、劉備は「魯粛によって生かされていた」といっても過言ではない状態だった。
そういう背景もあって劉備は魯粛に頭が上がらない状態であり、関羽も荊州の割譲に応じるしかなかった。
演義では劉備陣営に翻弄されるお人好しというイメージが強い魯粛だが、正史に描かれた彼の姿は演義とは真逆で、正に劉備陣営の「キーパーソン」だった。
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