はじめに
織田信長(おだのぶなが)は永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元を討った後、三河の松平元康(のちの徳川家康)と清州同盟を結び互いに背後を固めた。
義父・斎藤道三亡き後、美濃の斎藤義龍との攻防は一進一退であったが、永禄4年(1561年)に義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興(さいとうたつおき)が跡を継いだ。
信長は北近江の浅井長政に妹・お市の方を嫁がせて美濃攻略への地固めを整えた。
今回は、信長VS美濃斎藤氏(斎藤龍興)との戦い「美濃平定」について解説する。
斎藤龍興とは
斎藤龍興は、父・義龍の死により14歳で家督を継いだが、父の代から続く信長の侵攻や祖父・道三の代から続く家臣の流出などがあった。祖父や父と比べると凡庸とされ、評判の悪い斎藤飛騨守を重用したために家臣の信望が余り得られなかった。
信長との初戦となる「森部の戦い」には勝利したものの、重臣の日比野清実や長井衛安らを失い、有力家臣の郡上八幡城主・遠藤盛数が病没してしまう。
信長に対抗するために北近江の浅井長政と同盟を結ぼうとしたが、信長に先に同盟を結ばれてしまう。
長政は信長と共に美濃に侵攻を開始した。
しかし、六角氏が浅井領に侵攻したため長政は、美濃攻めを中断した。
永禄6年(1563年)再度侵攻してきた信長と戦い、家臣の竹中半兵衛(重治)が「十面埋伏陣(じゅうめんまいふくのじん)」という戦法によって信長軍を破った。(新加納の戦い)
しかし龍興は酒に溺れ政務に無関心で、竹中半兵衛や西美濃三人衆など重臣たちの意見を徐々に聞かなくなっていった。
稲葉山城乗っ取り事件
龍興は斎藤飛騨守を重用した。飛騨守と半兵衛は私怨があり、半兵衛らは政務から遠ざけられていた。
そこで半兵衛は西美濃三人衆の一人である舅・安藤守就(あんどうもりなり)と協力してクーデターを計画。
永禄7年(1564年)2月6日、半兵衛は16人の供を連れ、難攻不落の城とされた稲葉山城に弟の見舞いと偽り入城。長持に隠した刀などの武具で見張りの斎藤秀成を斬り「竹中の兵が大勢で城内に攻め込んで来た」と吹聴した。
城内は大混乱となり、着の身着のまま逃げ出す者が続出。龍興も側近と共に城を逃げ出した。
しかし待機していた舅・安藤守就の2,000の兵が攻めて来たことで、龍興はどうすることも出来なくなった。
半兵衛はたった1日、しかも17人で難攻不落と言われた稲葉山城を乗っ取ってしまった。
この話を聞いた信長は「稲葉山城を明け渡すなら美濃国半分を与えよう」と半兵衛に持ち掛けたが、半兵衛はそれを断り、半年後には反省した龍興に返してしまった(返したのではなく龍興を支援する勢力の攻撃により稲葉山城を放棄したとも言われる)
しかし、この事件によって斎藤氏の衰退が表面化してしまうこととなる。
中濃攻略戦と猛将・岸信周、信房親子
東美濃においては有力領主の市橋氏・丸毛氏・高木氏などが信長と通じるようになっていった。
美濃の有力国人であった加治田城主・佐藤忠能(さとうただよし)・忠康親子と加治田軍(加治田衆)も家臣の梅村良沢の手引により密かに信長に内通し、水面下で斎藤氏の弱体化はますます進んでいった。
永禄7年(1564年)5月、信長は斎藤氏と同盟を結んでいた尾張犬山城主・織田信清(信長の従兄弟)を攻めて犬山城は陥落。信長は念願の尾張統一を果たす。
美濃方の最前線・鵜沼城の攻略は、信長の家臣になりたての木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が任せられ、鵜沼城主・大沢次郎左衛門は秀吉の説得を受け入れて開城した。
龍興の大叔父・長井道利は、信長と内通していた佐藤忠能の不穏な動きを察知し策を考え、斎藤氏の中で猛将で知られる堂洞城主・岸信周(きしのぶちか)と佐藤忠能とで同盟(中濃三城盟約)を結ばせた。さらに佐藤忠能の娘を岸信周の養女とし人質とすることで、佐藤忠能が寝返らないように抑え込んだ。
その後、信長は北上し、戦上手でやっかいな猛将・岸信周を味方につけようと、金森長近を使者として寝返り交渉したが拒否されてしまう。この時、岸信周の息子・信房(のぶふさ)は嫡男を呼び、なんと金森長近の目の前で嫡男の首を切ったという。
これを見た金森長近は「明日の戦でおめにかかろう」としか言えず、交渉を諦めた。
信長は岸信周、信房親子を買っており、なんとか味方にして織田家の重鎮としたかったが、彼らの説得を諦め、岸信周が守る堂洞城へ進軍を開始した。
加治田・堂洞合戦
堂洞合戦(どうほらかっせん)は激戦となった。
長井道利と岸信房親子は織田軍を堂洞城へ誘い込み、中濃三城盟約による佐藤忠能率いる加治田軍と斎藤龍興本隊の援軍によって、織田軍壊滅を図った。
しかし佐藤忠能は内通通り信長に寝返ってしまった。これを知った岸信房は、人質をしていた佐藤忠能の娘を刺殺し、竹の串に貫いて見せしめとして堂洞城長尾丸にて磔にした。(亡骸はその日の夜、忠能の家臣が奪い取って加治田の龍福寺へ葬った)
猛将・岸信周、岸信房親子は、寡兵ながらも織田軍を何度も打ち破って大奮戦したが(18度も織田軍を撃退)、多勢に無勢で力尽き、自刃した。
堂洞城を攻略した織田軍は翌日、岸方の首実検を行って犬山へ帰陣したが、途中で長井道利軍と龍興本隊に攻められた。
織田軍は岸親子との戦いで負傷兵が多く、戦える状態ではなかったため一旦退却した。
その後の戦いで長井道利の関城も織田軍に奪われ、中濃地方もとうとう信長の勢力圏に入ることになった。
稲葉山城の戦い
永禄9年(1566年)足利義昭の調停で、信長と龍興は一旦和議を結んだ。しかしこれを龍興が破棄して「河野島の戦い」に発展。
この戦いは龍興が勝利し、信長が義昭を奉じて上洛しようとしたが失敗したという見解もある。そしてこれが龍興の最後の勝利となった。
永禄10年(1567年)8月1日、西美濃三人衆の稲葉良通(一鉄)氏家直元(卜全)安藤守就らが信長に内応を約束し、人質を引き取ってくれと連絡して来た。
信長は村井貞勝と島田秀満を受け取りに向かわせつつ、すぐに兵を集めて美濃に攻め入り、井口山とは山続きの瑞竜寺山に駆け上った。
龍興側が「これは敵か味方か」と戸惑っているうちに、信長は城下の井口まで攻め入って街を焼き討ちにして稲葉山城を裸城にしてしまう。
8月14日、信長は城の周囲に鹿垣を作って閉じ込め、8月15日には美濃の者たちが降参して開城。
ただし龍興は舟で長良川を下り伊勢の長島へ脱出した。
墨俣一夜城の逸話
美濃平定にて重要な拠点となる長良川西岸の墨俣に、秀吉が一夜にして城(砦)を完成したという逸話がある。(墨俣一夜城)
通説では信長は当初、城の建造を佐久間信盛に任すも失敗。次に柴田勝家に任せたがまたしても失敗。そして秀吉が「7日のうちに完成させる」と言上した。
美濃勢を伏兵奇兵で撃退しながら砦城の建造準備を行い、雨で戦が中断している中、上流から流した材木で組み立て一夜(もしくは3日)にして墨俣城を完成させたとされている。
この功績で秀吉は織田家中での発言力を上げたとされているが、この話は江戸時代以降の創作だと言われ、信憑性は低いとされている。
おわりに
信長は拠点を小牧山城から稲葉山城に移して「岐阜城」と改め、古い縄張りを壊して城を造営し直した。
この頃から「天下布武」の朱印を用いるようになったという。この印判の「天下」は天下統一ではなく五畿内を意味するものであるとされている。
その後、信長は岐阜城から本当に天下統一を志すようになったという。
伊勢長島に逃げた龍興は長島一向一揆に参加して信長と戦い、三好三人衆と結んで六条合戦や野田城・福島城の戦いにも参加したとも言われている。
最期は天正元年(1573年)信長と朝倉の刀根坂の戦いで戦死した(享年26)とされるが、生存説も複数存在している。
斎藤龍興は竹中半兵衛にクーデターを起こされて城を奪われたり、有力国人に寝返られたりと家臣をうまく扱えず、あまり良いところがなかった印象ではあるが、信長に3度も勝利している。(信長の戦績は94戦68勝20敗6分け)逃亡時は若干20歳。その後の6年間もしぶとく信長の邪魔をし続け、天下取りを遅らせたとも言われている。
筆者としては龍興は武将としての資質は十分にあったと考える。父が早逝して14歳で家督相続はあまりにも突然で若すぎであり、引き継ぎや教育を含め、家臣団をまとめる環境が整っていなかった中で信長と渡り合った。武田勝頼は27歳で家督を継いだが家臣団をまとめるのに苦労し続けた。環境は違えども家臣団の引き継ぎは容易ではないのだ。
ルイス・フロイスは斎藤龍興を「非常に有能で思慮深い」と記録している。
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