斎藤義龍とは
斎藤義龍(さいとうよしたつ)は、今年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で伊藤英明さんが演じた武将である。
戦国時代の梟雄として美濃一国を手中にしたマムシの斎藤道三は、嫡男・義龍に斎藤家の家督を譲ったが、義龍を無能だとして次第に弟たちを寵愛して廃嫡の動きを見せたことから、二人の関係は悪化して親子間での血の争いとなってしまう。
また戦国一の高身長(197cm)だったことでも知られ、美濃の統治は短い期間だったにも関わらず信長を苦しめた。
数奇な運命に翻弄された武将・斎藤義龍について解説する。
斎藤義龍の生い立ち
斎藤義龍は、大永7年(1527年)に美濃の守護代・斎藤利政(後の斎藤道三)の嫡男として生まれた。
幼名は豊田丸で元服後に利尚、高政と名を変えた後に義龍となる。※ここでは義龍と記させていただく
義龍を産んだのは道三の側室・深芳野(みよしの)だが、深芳野は道三の主君である土岐頼芸(ときよりあき)の愛妾であった。
道三が深芳野を賜ったのは前の年の大永6年の12月であることから、「義龍は実は土岐頼芸の子ではないか」と噂になった。
深芳野は美濃国一の美女であったとされ、なんと身長は六尺二寸(約187cm)もあったという。
義龍も母の血を引いていたのか、身長は六尺五寸(約197cm)もあり、戦国武将の中では豊臣秀頼(197cm)同様に一番背が高かったとされ、馬に乗っても足がついたほどの大男であった。
道三は主君・土岐頼芸を追放して美濃を平定、天文23年(1554年)義龍は道三から家督を譲られて稲葉山城主となった。(この時期については天文17年だったという説もある)
ただ、道三の隠居については謎の部分も多く、実は隠居していなかったという説もあり、領国経営を円満に進めるための交代劇という見方もある。(諸説あり)
長良川の戦い
道三は義龍のことを「愚か者」として正室・小見の方との間に生まれた次男・孫四郎や三男・喜平治を寵愛するようになる。
義龍も父・道三の振舞いや政策に不満を持ち、斎藤家の行く末に危機感を募らせていった。
ついには道三が義龍を廃嫡して孫四郎を嫡子にとしようと画策。喜平治には名門・一色氏を継がせたことから両者の関係は悪化した。
弘治元年(1555年)義龍は叔父・長井道利と共謀して孫四郎と喜平治を自分の病気見舞いにおびき出して殺害してしまう。
これで道三と義龍は完全に敵対し、父と息子は弘治2年(1556年)4月、長良川の戦いで激突することになった。
義龍の味方は17,500、対する道三は2,500であった。(※道三は土岐氏から国を奪った経緯や、強権政治により残酷な刑を多く処したことなどで味方する者が少なかった)
義龍の見事な采配に道三は「しばらく斎藤家は安泰」と語り、義龍を無能だとした自分の評価に後悔したという。
道三はこの戦いで戦死した。(享年63)
尾張から道三の救援に向かった娘婿の織田信長は長良川の戦いには間に合わず、義龍と多少の戦闘をしてから尾張へ撤退した。
織田信長との争い
晴れて美濃の国主となった義龍は、尾張の義弟・織田信長を滅ぼそうとした。
義龍は尾張の半分を支配していた岩倉織田家の織田信安と手を組み、信長の兄・織田信広をけしかけて謀反を起こさせた。
義龍は外交力によって信長を身内の謀反などで苦しませたのだ。
また、室町幕府第13代将軍・足利義輝から「一色」姓を称することを許され、義龍は斎藤氏から一色氏に改名する。
一色氏は足利一門の丹波の守護、室町幕府の相伴衆で序列は美濃の守護・土岐氏よりも上であり、義龍は主君の土岐氏よりも家柄は格上になった。
これによって道三に追放された土岐氏が美濃の守護として復権する可能性がなくなり、土岐氏が義龍に抵抗する大義名分が消滅した。
※一色への改名は「父殺しの汚名を避けるため」に行ったという説もあり、これは義龍の生母・深芳野が一色氏の出で正当性があったためとされる。
永禄2年(1559年)将軍・足利義輝から幕府の「相伴衆」に加えられ、義輝の「義」の字を賜り、名前を「高政」から「義龍」に変えて戦国大名としての地位を確立。
信長が一族内での戦いに明け暮れる中、義龍は戦国大名としての地位向上や朝廷からの官位を賜って権威と家格を得た。
永禄3年(1560年)5月19日、信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る。
これにより岡崎の松平元康(後の徳川家康)が今川から独立して信長と同盟を結び、東からの今川の脅威が薄れた信長は尾張を統一して美濃攻略に動き出す。
桶狭間の戦いと前後して、義龍と信長の攻防は一進一退の様相を呈していた。
義龍は信長の暗殺を画策して鉄砲部隊を刺客として差し向けたが失敗している。(※日本初の記録に残る狙撃)
急死
永禄3年(1560年)6月、義龍は近江の六角氏と同盟を結び、関係を強化して信長との戦いに専念しようとしていた。
そんな中、永禄4年(1561年)5月11日に義龍は急死してしまう。享年35歳(33歳という説も)という若さであった。
詳しい死因は分かってはいないが、一説には「ハンセン病にかかっていた」「持病があり薬をいつも飲んでいた」と伝えられている。
また、亡くなる前年に正室・近江の方の後に迎え入れた妻・一条の方と息子・菊千代を相次いで亡くしていたために、そのストレスも大きかったのではないかとされている。
他には臨済宗妙心寺派の激しい内部対立「別伝の乱」に巻き込まれて心労を重ねており、このストレスも原因の一つとだとされている。
義龍亡き後は嫡男・龍興(たつおき)が継いだがまだ14歳と幼く、これを好機と見た信長は美濃への侵攻を開始する。
信長は、義龍の死から6年後の永禄10年(1567年)にようやく美濃を平定。
義龍の死後、信長が美濃を攻略するのに6年もかかっていることから、嫡男・龍興は若いながらも有能だったことや、龍興も美濃を奪ってから亡くなるまでのたった5年で信長が手こずるほどの国造りをしていたことがわかる。
信長は、道三・義龍・龍興の居城・稲葉山城を岐阜城と改め、この城から「天下布武」を発布した。
おわりに
斎藤義龍は父・道三を討った後、美濃の国主としてその手腕を発揮した期間が短かったことや、有名な父・道三の存在と父殺しの汚名もあって戦国史において語られる機会が少なかった。
しかし、短い期間に父とは違う合理的な内政を行い、朝廷や室町幕府といった権威を利用して美濃の国主としての地位を固めた。
斎藤義龍にもう少し寿命があれば、織田信長はなかなか美濃を攻略することは出来ず、戦国史の様相も変わっていたかも知れないと思わせる武将であった。
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