宮川勝五郎、宮川勝太、嶋崎勝太、嶋崎勇、そして実名(本姓+諱)の藤原義武……幕末・京都の不逞浪士を震撼せしめた新選組(しんせんぐみ)局長・近藤勇(こんどう いさみ)と言えば、その生涯においてしばしば名前を変えたことでも知られています。
やがて京都から敗走した後も大久保剛、大久保大和(大和守)と改めて最期を迎えますが、これまでと異なり、いきなりガラッと変えた感が強い印象です。
一体これはどういう理由なのでしょうか。今回は近藤勇の改名事情について調べ、考察していきたいと思います。
改名状況に見る近藤勇の年表
まず、近藤勇の改名状況を時系列にまとめてみました(諸説あり)。
天保5年(1834年)10月5日……1歳
誕生時、宮川勝五郎(みやがわ かつごろう)と命名。後に宮川勝太(かつた)と改名、時期及び理由は不詳。嘉永2年(1849年)10月19日……16歳
天然理心流宗家・近藤周助(の実家である嶋崎家)に養子入りし、嶋崎勝太(しまざき かつた)となる。
後に(あるいは養子入りの時点で?)元服して嶋崎勇(いさみ)、公的な場所では本姓の藤原義武(ふじわらの よしたけ)も称し始める。文久元年(1861年)……28歳
養父・周助より近藤姓(天然理心流の宗家)を襲名し、近藤勇と名乗る。慶応4年(1868年)3月1日……35歳
戊辰戦争で京都から敗走、江戸防衛の拠点として甲府を確保(新政府軍よりも先に占領)するべく、新選組を「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」と改称、近藤も大久保剛(おおくぼ たけし)と変名を用いる。同年~処刑まで
将軍・徳川慶喜の降伏後も徹底抗戦するべく、会津行きを前に大久保大和(やまと。大和守)と改名。新政府軍に出頭し、やり過ごそうとするも偽名がバレて処刑される。
……宮川勝五郎⇒宮川勝太⇒嶋崎勝太⇒嶋崎勇⇒近藤勇⇒大久保剛⇒大久保大和と、実に6回も改名している近藤勇。
大久保剛の変名を用いたのは任務(※)のためでしょうが、剛は諱の義「武」から音をとったとして(剛毅朴訥、質実剛健……いかにも近藤勇が好みそうです)、大久保の名字を選んだのは何か理由があるのでしょうか。
(※)甲府を確保するに当たって新選組を甲陽鎮撫隊と改称させた理由について、大河ドラマ「新選組!」では「新選組のままだとネームバリューが大きくて人が集まり過ぎ、新政府軍と和平交渉の邪魔になる(大意)」としていましたが、あるいは「新選組と近藤勇は江戸を堅く守っている(まだ戦力に余裕がある)」ように見せかけたかったのかも知れません。
近藤勇が「大久保」「大和」を選んだ理由は?
甲府を目指した近藤勇が「大久保」を称した理由……甲府と大久保の関係を調べたところ、徳川慶喜の従弟に当たる大久保忠礼(おおくぼ ただのり)が慶応3年(1867年)から同4年にかけて甲府城代を務めています。
この大久保家は徳川家に仕えた譜代の忠臣で、その祖先である大久保忠隣(ただちか)が謀略によって一度は失脚、小田原藩主の座を追われたものの、七十余年の歳月を経て曾孫に当たる大久保忠朝(ただとも)が小田原藩主に返り咲き、以降廃藩置県に至るまで続きました。
『三河物語』の執筆や講談などでも大人気だった大久保彦左衛門(ひこざゑもん。忠教)の一族でもあり、徳川将軍家に対してこれほど忠義に篤い家名もあるまい……そんな思いが近藤勇に「大久保」の名字を選ばせたのかも知れませんね。
しかし、意気込みとは裏腹に任務の方は上手く行かず、板垣退助(いたがき たいすけ)率いる迅衝隊(じんしょうたい)に甲府城を占領されてしまい、3月6日に甲州勝沼(現:山梨県甲州市)で激突。敗走してしまいます。
そして会津行きに際して名を「大和(大和守)」としたのは、官軍に抵抗する意思がないことを示して追及の手を逃れようとするのに、勝沼で戦ったことがある「大久保剛」の名前では都合が悪かったのでしょう。
大和(大和守)とは国司を現す官職で、官位では従五位に相当。五位以上は諸大夫(公家)となるため、官軍もそれ相応に扱わざるを得まい……要するに一種のハッタリと言えます。
では、数ある律令国名(および他の官職)の中で「大和(現:奈良県)守」を選んだ理由は何でしょうか。名字と頭文字が同じだったとか、「おおくぼやまと」という語呂の良さだったか、それとも大和すなわち日本国を担う志を示したかったのかも知れません。
今は薩摩・長州という「君側の奸(※)」によって官軍の名をほしいままにしていますが、元より尊皇攘夷の志においては誰にも負けない……そんな思いが名前に現れ、心ならずも賊軍とされてしまった境遇の似通う会津藩との共闘を目指したのでしょうか。
終わりに
かつて日本を官軍/賊軍に二分し、全国各地で死闘が繰り広げられた戊辰戦争。
しかし、賊軍とされた者が必ずしも朝廷に仇なそうとした訳ではなく、また官軍を称した者が必ずしも日本国のためになったとも言えません。
それでも、誰もが日本国のためを思って奔走したからこそ、数々の怨恨を乗り越えて明治維新を成し遂げることが出来たのではないでしょうか。
幕府への忠義と、朝廷すなわち日本国への思い。この二つを両立させる大久保大和という名前には、近藤勇の純粋なる至誠が込められているようです。
※参考文献:
- 大石学『新選組 「最後の武士」の実像』中公新書、2004年11月
- 松浦玲『新選組』岩波新書、2003年9月
- 宮地正人『歴史のなかの新選組』岩波現代文庫、2017年11月
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