幕末明治

新選組も悼んだその死…主君を救うため自ら切腹した会津藩士・柴司の忠烈エピソード

切腹と言えば、武士として名誉ある(≒体面が保たれる)死とはされたものの、死ぬことには変わりなく、また、その理由も不始末のケジメをとる(とらされる)ことがほとんどでした。

要するに「進んで命を差し出した覚悟に免じて、罪人ではなく武士として扱ってやるから、死んで詫びろ」という当局の本音が見え隠れするものですが、中には本当に「進んで命を差し出した」武士もいました。

今回は幕末、忠義のために自ら切腹して主君の窮地を救った会津藩士・柴司(しば つかさ)のエピソードを紹介したいと思います。

京都・明保野亭にて

柴司は弘化元年(1844年)2月14日、会津藩士・柴友右衛門次直(ともゑもん つぐただ)の末子(四男)として生まれました。

幼名は又四郎(またしろう)、元服して諱(いみな。本名)を次正(つぐまさ)と称し、兄の柴幾馬次俊(いくま つぐとし)、柴寛次郎次久(かんじろう つぐひさ)、柴外三郎次元(そとさぶろう つぐもと)らと共に会津藩へ奉公します。

京都守護職を務めていた会津藩主・松平容保。

事件が起こったのは柴司が21歳となった元治元年(1864年)6月10日。当時、会津藩は京都守護職として治安維持を担当しており、不逞浪士が潜伏しているとの通報があった東山(現:京都市)の明保野亭(あけぼのてい)に急行します。

いつもだと、不逞浪士の取り締まりは主に新選組(しんせんぐみ)が担当していたものの、6月5日の池田屋事件(6月5日)で多くの隊士が負傷していたため、会津藩から柴司を含む5名が応援に駆けつけたのでした。

「御用改めである!」

新選組と会津藩士らが明保野亭へ踏み込むと、店内は俄かに大騒ぎ。池田屋事件の残党らは慌てふためいて逃げ出します。

「こらっ、逃げるな!」

柴司も座敷から逃げ出そうとした一人の武士を槍で突いて捕縛しますが、その者は痛みをこらえながら弁明しました。

「拙者は浪士ではなく、土佐山内(やまのうち。土佐藩)家臣・麻田時太郎(あさだ ときたろう)と申す。どうか、ご検分願いたい」

槍を引っさげ、明保野亭へ踏み込んだ柴司(イメージ)。

会津藩はこの麻田について土佐藩に身元を確認したところ、確かにその通りであったため身柄を引き渡しました。

柴司は無実の者に危害を加えた疑いで会津藩より事情聴取を受けたものの、「相手が名乗らず逃げ出したため、とっさに不逞浪士と誤解するのも無理はなく、攻撃は正当な職務遂行の範囲内」として無実が証明されます。

「とは言うものの、麻田殿も大変お気の毒ではあるゆえ、見舞いの使者と薬師など遣わそう」

対する土佐藩も、当時は比較的良好だった会津藩との関係を壊したくなかったので

「お心遣い、痛み入る。そもそも麻田が名乗らなかったことが誤解の原因であるゆえ、此度はこれで和解と致したい」

これにて一件落着……かと思いきや、一夜にして状況は一変してしまうのでした。

これも会津の為なれば……

「何……麻田殿が、切腹とな!」

明けて6月11日、土佐藩で麻田時太郎が「士道不覚悟(武士としてあるまじき振る舞い)」によって切腹させられたとの報せが届き、会津藩中は騒然となります。

士道不覚悟により、切腹させられた麻田時太郎(イメージ)。

「山内家中では、『麻田ばかりでは不公平ゆえ、柴にも腹を切らせよ』などと喚き立てる連中もおるようで……」

土佐藩中には、幕府の手先として京都の守りを固めている会津藩を叩きたい討幕派も少なからずおり、その声を抑えるのに大変苦慮しているとのこと。

「京都守護職の会津が、他家と諍いを起こして京都の治安を乱す訳には参りませぬし、ここは一つ『喧嘩両成敗』で柴にも腹を切らせては……」

確かに、土佐藩中の討幕派を納得させるにはそれが一番手っ取り早く、また効果的ではありますが、道理に適っているとは言い難いものです。

「柴は正当に職務を遂行し、麻田は士道不覚悟の振る舞いがあった。麻田のみが腹を切れば足りる話であり、横車を押す一部連中の声がうるさいからと無理を通してしまえば、今後要求を押し通すために皆が声を荒げるようになってしまう」

とは言え、討幕派の声を無視し続ければ、本当に土佐と会津の全面抗争が勃発してしまいかねない……頭を抱える会津藩の窮状を知って、柴司は切腹を決意しました。

「よう申した。そなたに非の一分たりともなきこと明白なれど、主君の窮地に進んで命を差し出す真の姿、会津の鑑ぞ!」

「兄上……!」

兄の介錯で果てた柴司(イメージ)。

明けて6月12日、柴司は兄の介錯によって見事に切腹。ここまでされては流石の土佐藩討幕派も納得せざるを得ず、会津・土佐両藩の激突は避けられたのでした。

会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)は柴司の忠義に感じ入り、彼の兄である柴外三郎に禄を与え、別家を立てることを許したそうです。

忠信院盡孝刃司居士(ちゅうしんいん じんこうじんしこじ)と戒名が贈られた柴司の葬儀には新選組の隊士たちも参列。前途有望な士を喪ったことを惜しまれました。

柴司は金戒光明寺(現:京都市左京区)の会津藩墓地に眠っており、墓の傍らにある墓碑銘が、彼の志を今に伝えています。

※参考文献:
小島一男『会津人物事典(武人編)』歴史春秋出版、1994年1月
黒鉄ヒロシ『新選組』PHP文庫、2000年1月

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角田晶生(つのだ あきお)

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