古来「袖振り合うも他生の縁」と言う通り、人間どんなことからご縁があるか分からないもの。
特に昔は個人の自由意思が制限されがちでしたから、ひょんなことから結婚なんて重代事項が決定されてしまうなんてことも間々ありました。
今回はそんな一例、『日本書紀』に登場する古墳時代の名将・紀小弓(きの おゆみ)のエピソードを紹介したいと思います。
出陣前に、妻をおねだり
紀小弓は生年不詳ですが、病死した雄略天皇9年(465年)時点で軍役を交替できるほど成長した息子・紀大磐(おいわ)がいたことから、息子を20歳以上として、子供をもうけたのが20歳前後とすると、5世紀前半の誕生と推測できます。
さて、そんな紀小弓は雄略天皇9年(465年)、雄略天皇の勅命を受けて新羅(しらぎ。朝鮮半島の古代王朝)征伐のため、小鹿火宿禰(おかひの すくね)、蘇我韓子(そがの からこ)、大伴談(おおともの かたり)らと共に日本海を渡ることになりました。
「はぁ……」
「いかがなされた」
浮かない顔の紀小弓を見て、訪ねたのは雄略天皇の勅命を持ってきた大伴室屋(おおともの むろや。談の父)。
「実は……」
紀小弓は先だって妻を亡くしたばかり、それで落ち込んでいたのです。
「どうか帝に『新羅征伐へ行くのはいいが、私の世話をしてくれる者がいない』とお伝え下され」
「臣(やつがれ)、拙弱(つたな)しと雖(いえど)も、敬みて勅を奉る。但し今、臣が婦(め)、命過(みまか)りたる際なり。能(よ)く臣を視養(とりみ)る者莫(な)し。公(きみ=ここでは大伴室屋)、冀(こいねが)はくは此の事を将(も)て具(つぶさ)に天皇(みかど)に陳(もう)せ」
※『日本書紀』より
【意訳】臣下たる私は臆病ではありますが、謹んで出陣の勅命をお受けいたします。ただ、私は妻を亡くしたばかりで、世話をしてくれる者がおりません。どうかこのことを、陛下に陳情願います。
……要するに「妻をあてがってほしい」という遠回しなおねだりで、自分から直接言うと突っぱねられてしまうと思ってか、大伴室屋に言伝を頼んだのでした。
新しい妻を伴い、活躍するも……
当時の価値観であれば、身の回りの世話をさせる女なんて奴隷で十分、戦場で現地調達(=拉致)すればいいじゃないか……などと思ってしまいそうなものですが、小弓は伴侶として愛情の注げる相手が欲しかった(どうしようもなく寂しかった)のでしょう。
妻の死を悼む間もなく新たな妻を迎えるのはいかがなものとは思いながら、雄略天皇もこれを憐れみ、とりあえず吉備上道采女大海(きびの かみつみちのうねめ おおしあま)を紀小弓の後妻にあてがいます。
「……と言う訳で、共に新羅へ同行(※)するように」
「え、えぇ……っ!?」
大海の驚きは察するに余りあるものの、ともあれ勅命とあれば逆らう訳にも行きません(※しかし、危険の大きな戦陣へ妻を伴うという感覚はよく解りません。よほど楽勝が見込めたのでしょうか)。
晴れて?結婚した二人は新羅へ遠征、新しい妻にいいところを見せようと奮起したのか、紀小弓は大活躍。新羅王・慈悲麻立干(じひ まりつかん)の軍勢を散々に蹴散らしたのでした。
「ははは……新羅の兵など恐るに足らぬ!者ども、奴らを地の果てまでも追い詰めよ!」
「お待ち下され、勢いに任せて猪突猛進されては……あぁっ!?」
新羅の残党にも一矢報いんと気骨ある者もおり、必死の抵抗によって大伴談が討死してしまいます。
「退け!退け!」
紀小弓らはそれ以上の深追いをやめて陣営の守りを固めましたが、雄略天皇9年(465年)3月に小弓は陣中で病死してしまいました。
お墓はどこにしたらいい?
結婚してすぐに死に別れてしまっても、ひとたびご縁に与った以上は夫の葬儀を執り行うのが妻の務め。
「身の回りのお世話とは聞いていたけど、嫁いですぐに死後のお世話をするなんて……」
まるで葬儀のために結婚させられたような気分でしょうが、ともあれ夫の埋葬地を決めねばなりません。
「妾(やつこ)、葬(をさ)むる所を知らず。願はくは良き地を占めたまへ」
※『日本書紀』より【意訳】私は夫をどこに埋葬すべきか分かりません。どうかよき場所を墓地にお与え下さいまし。
又しても大伴室屋を介して雄略天皇へ奏上したところ、雄略天皇は次の詔勅をもって答えました。
「大将軍(おほいくさのきみ)紀小弓宿禰(すくね)、竜のごとく驤(あが)り虎のごとく視て、旁(あまね)く八維(やも)を眺(ながむ)る。逆節(そむけるもの)を掩(おほ)ひ討ちて四海(よもつくに)を折衝(ことむ)く。然(しかう)して則ち身万里(とほきくに)に労(いたづ)きて、命三韓(からつくに)に墜(おとし)ぬ。哀矜(めぐみ)を致して視葬者(はふりのつかさ)を充てむ。又汝(いまし)大伴卿(おほとものまへつぎみ)、紀卿等(たち)と同じ国近き隣の人にして、由来(ありく)こと尚(ひさ)し」
※『日本書紀』より【意訳】紀小弓は天に昇った竜のように高い視点、大地に立つ虎のように広い視野であまねく八方へ睨みをきかせ、逆賊どもを討ち平らげて四海に平和をもたらした。使命のためなら万里の遠征もいとわず、三韓の地に命を落とした。その死を哀れみ悼んで盛大な葬儀を執り行わせよう。そなた(=大伴室屋)は生前、紀小弓と親しく、また所領を接しているため、その境界に葬れば、末永く供養できよう。
……ということで、紀小弓の墓を和泉国日根郡田身輪邑(たむわのむら。現:大阪府泉南郡岬町)に造らせたのでした。
エピローグ
「あぁ良かった……」
かくして夫の菩提を弔うこととなった大海がいつ亡くなったのかは記録がないものの、『和泉志(いずみし)』によれば彼女の墓は田身輪邑の南に設けられ、夫の陵(大陵)に対して「小陵(こみささぎ)」と呼ばれたとか。
ひょんな事からあてがわれ、現世ではわずか2ヶ月ほどの夫婦生活でしたが、あちらでは末永く幸せであって欲しいものです。
※参考文献:
- 宇治谷孟 訳『日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)』講談社学術文庫、1988年6月
- 宇治谷孟 訳『日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)』講談社学術文庫、1988年8月
- 坂本太郎ら監修『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、2010年11月
- 藤原彰 監修『コンサイス日本人名事典』三省堂、2001年9月
笑いました。本当は妻問婚の話でしょう。責任者として遠くの戦場にゆくには自己資産、資材や人が足りないから、資産家と結婚させてくれって泣きついたんでしょう、違いますか?
そういう解釈も出来るかも知れませんね。
面白いものです。