大作家の割腹自決
※31歳の三島由紀夫(1956年)public domain三島由紀夫(みしまゆきお)は、昭和を代表する作家として誰もが知る存在ではないでしょうか。
三島は、1970年(昭和45年)11月25日、自身が結成した「楯の会」会員らと陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地で驚愕の事件を起こしました。
同駐屯地の東部方面総監を人質に取って、自衛隊員らに決起を呼びかけ、それが受け入れられないと知ると割腹し、自刃して果てたのでした。
この事件は世界的にも高名な作家が引き起こしたこともあり、各方面に衝撃をもたらしました。
憲法改正を目指した 三島由紀夫
この三島事件を説明するならば、日本国憲法下で様々な制約や政治的解釈の産物として不完全な立場にあった自衛隊を、三島の思う真の「軍隊」へと回帰せしめるための恣意行動だったと言えます。
この時代、太平洋戦争の敗戦から25年が経過し、経済的な安寧のみを良しとする風潮が蔓延していました。
現在でもその風潮は高まり、かつて三島が危機感を抱いたこの時代さえも、もはやノスタルジーの対象として「古き良き日本」とすらされています。
当時三島の行動は初めから結果を期待していないショーだったとも言えました。
盾の会
「盾の会」は三島が創設した民間の軍事団体というべき組織で、事件に先立つ1968年(昭和43年)の2月に結成されました。三島と共に自決した森田必勝は、翌年にその学生長に任じられていました。
「盾の会」は前身となった「祖国防衛隊」から発した組織で、約100名の構成員がいたとされています。
特徴的な制服に身を包んだ姿は、当時も異様なものと受け取られ、却って安易なヒロイズムに傾倒した集団と見做されることに繋がったと思われます。
三島の死の翌年1971年(昭和46年)2月に「楯の会」は解散式を行って組織としても消滅しました。
総監を人質に立てこもり
三島事件は、1970年(昭和45年)11月25日の午前11時前頃、三島や森田ら盾の会の構成員5名が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の益田総監を訪ねたことから始まりました。
事前にアポイントを獲っていた三島らは総監室に通され、益田総監と面談に入りました。
このとき三島は持参した名刀・関の孫六を益田総監に見せ、その後森田らが益田総監を椅子に拘束、総監室内の周辺にあったデスクなどを用いて突入を防止しました。
当初益田総監はこれらの行動を冗談だと感じたようですが、三島の抜刀した状態を見て変事だと察したとされています。
隣にいた自衛官らがすぐに異変に気付きましたが、三島らは要求をのまない場合は総監を殺すと脅し、それでも突入してきた数名の自衛官に斬りかかりました。
事態を飲み込んだ総監は要求を受け入れるように部下たちに指示します。
そして総監室に立てこもった三島は要求書を突きつけました。その要求とは、同駐屯地内の自衛官を集合させ、三島に演説させることでした。
敢えて肉声で演説
自衛隊は三島の要求を聞き入れて、自衛官らを集合させ演説をさせました。
すでに事件の通報を受けて警察も動き、また報道機関もすでの事件の中継を初めていました。
同日正午過ぎに三島は、白鉢巻きに白手袋、盾の会の制服と出で立ちでバルコニーで演説を行いました。その内容は先に散布されていた「檄文」に記載された内容と同じものでしたが、マイクを使わず肉声だったので、報道機関のヘリの音や集まった自衛官たちの怒号で、ほぼ聞こえないものでした。
その状況の中で、奇跡的に音声をとらえた文化放送の録音が残っています。
三島由紀夫の演説音声↓
敢えてマイクを使用しなかったのは、三島が崇拝していた神風連の乱に影響を受けた為とも言われています。
明治に熊本で士族反乱を起こした神風連は、西洋文明を嫌って銃火器を用いず、刀、弓矢槍などの古来からの武器のみで反乱を起こした集団でした。これを崇拝していた三島が、西洋文明の利器たるマイクやスピーカーを嫌い、自らの肉声に拘ったとされています。
結局、演説を途中で諦めた三島は割腹自決を遂げ、同じく森田もその後を追って自決、昭和の文豪が引き起こした騒動は幕を下ろしました。
世界的作家であった三島の事件は世界でも大きなニュースとなりました。
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