名前がなかった暗殺組織
血盟団事件(けつめいだんじけん)は、日蓮宗の僧侶であった井上日召が引き起こした昭和のテロ事件です。
井上の暴力による国家の改造計画に基づいて2名の人物が殺害された事件ですが、実行犯となった組織には名称が存在しなかった為、血盟団という名称は事件後に検察が付けたものでした。
この事件は、茨城を基盤とする僧侶とその教えを信奉した農村の青年たち、それに東京大学の学生が加わった上に、海軍など軍部をも巻き込んだもので、当時の時代背景の複雑さを反映した事件でもありました。
この後の軍部による5・15事件や2・26事件と異質だったのは、まさに関係者たちの多様さでした。
一人一殺
血盟団事件は、茨城の大洗町において立正護国堂を本拠地としていた日蓮宗の僧侶・井上日召が、周辺の青年達を糾合して行っていた政治活動に端を発しました。
井上はこの中で1931年(昭和6年)頃、暴力を用いたテロで国家体制の変革を指向するようになったとされています。
その考えはまず民間人が政界・財界の重要人物を殺害し、続けて海軍の協力者らが決起して、天皇を中心とした国家への革新を成立させるという考えであったとされています。
この考えに基づいて井上は政財界などから20数名の人物を標的として指定すると、配下のメンバーに対して有名な「一人一殺」のスローガンの下、その実行を指示しました。
2件の暗殺の実行
血盟団事件はま先ず1932年(昭和7年)2月9日に元大蔵大臣であった井上準之助を小沼正が拳銃で襲撃して殺害したことで始まりました。
この時の凶器となった拳銃は、海軍の井上の同士から入手宇したものでした。
続く同年3月5日に三井財閥の総帥であった団琢磨を、菱沼五郎が同じく拳銃を用いて殺害しました。
実行犯となった小沼と菱沼の両名は、茨城県大洗周辺の出身の幼少の頃からの知り合いであり、日蓮宗を信奉する信者でした。
二人は犯行直後に逮捕されましたが、警察の取り調べには黙秘を通しました。しかし警察は二人の出身地・年齢が同じである事から捜査を進め、事件の背後にいる井上とその組織の存在に辿り着きました。
検挙後の犯人たち
井上は捜査の手が及んだことで同年3月11日に自ら警察に出頭し、そこから事件に関与した14名のメンバーが検挙されることになりました。
後の供述で小沼は犯行に使用した拳銃を海軍の将校から入手したことを明かしましたが、その軍人を含み海軍から検挙者はでませんでした。
検挙された東大生の四元義隆は、世界恐慌の煽りを受けた学生の就職難なども事件の動機であることを供述しています。
後に裁判の結果、井上、小沼正、菱沼の三名は無期懲役の判決を受け、四元ら東大七生社などの学生メンバーもにも実刑の判決が下されました。
事件後の血盟団
血盟団事件の後、海軍将校の古賀清志は血盟団の残党を糾合し、橘孝三郎の愛郷塾や陸軍の一部を引き込み、再度陸軍の蜂起を呼びかけて、大規模なテロ行為の実施を企図しました。
これが血盟団事件の数か月後に引き起こされた、五・一五事件でした。
その後、1940年(昭和15年)に恩赦によって出獄した井上と四元は、近衛文麿の元へ招かれて近侍すると、鈴木貫太郎総理の秘書を務めるなど政界に関与しました。
四元は会社経営者としても成功し、戦後日本の政界において大きな影響力を持ち続けました。細川護煕が総理であった際には影のご意見番的なポジションにあったとも伝えられています。
長寿だった四元は2004年(平成16年)6月まで生き、享年96で世を去りました。
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