古来、戦場における一番駆けは自らの身命を惜しまぬ武勇を証し、味方の士気を高める振る舞いとして高く評価されてきました。当然、他の武功に対して恩賞は手厚くなります。
しかし武士たちにとって恩賞はあくまで副産物。もちろん(恩賞は評価の一環なので)なければ不満ですが、武功と引き換えにできるかと訊かれれば、決してそんなことは認めません。
その一例として、今回は鎌倉時代の御家人・波多野忠綱(はたの ただつな)を紹介。
時は建暦3年(1213年)5月2~3日、鎌倉を火の海とした和田合戦におけるできごとです。
二度の先登(一番駆け)を果たした忠綱。しかし……
……凶徒到横大路〔御所南西道也〕。於御所西南政所前。御家人等支之。合戰及數反也。波多野中務丞忠綱進先登。又三浦左衛門尉義村馳加之……
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月2日条
横大路(よこおおじ)とは鶴岡八幡宮の三の鳥居前を横切るメインストリートで、寿福寺から宝戒寺(当時は北条氏邸)を結びます。
ここで波多野忠綱ら(北条方)は和田勢を迎え撃つこと数度。政所(まんどころ)前の戦闘で忠綱は真っ先に突入し、三浦義村(みうら よしむら)はその後に続きました。
文中の「波多野中務丞忠綱(なかつかさのじょう ただつな)は先登(せんど)に進み、三浦左衛門尉義村(さゑもんのじょう よしむら)これに馳せ加う(加勢する)」という表現がカッコいいですね。
またその後も米町(よねまち。現:大町1丁目辺り)で戦闘があり、ここでも先登を果たします。
ひと合戦で二度の先登に、得意満面だったろう忠綱。しかし戦後の論功行賞(5月4日)で口を挟む者がいました。三浦義村です。
武功を売るなど言語道断!
……爰波多野中務丞忠綱申云。於米町并政所。兩度進先登云々。米町事者置而不論。政所前合戰者三浦左衛門尉義村先登之由申之。於南庭各及嗷々論之間。相州招忠綱於閑所。密々被仰云。今度世上無爲之條。偏依義村之忠節。然者米町合戰先登事。無異論之上者。政所前先登事。對彼金吾相論難叶時儀歟。存穩便者被行不次之賞。無其疑云々。
忠綱申云。勇士之向戰塲。以先登爲本意。忠綱苟繼家業。携弓馬。雖何箇度。盡進先登哉。耽一旦之賞。不可黷万代之名云々……※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月4日条
「米町の件については、波多野殿の申し出に異存はありません。しかし、政所前の一番駆けはこの三浦にございます」
「バカな!あれは誰がどう見たってそれがしが一番駆けじゃ!」
忠綱と義村が口論を始めてしまったので、やむなく北条義時(ほうじょう よしとき)は暫時休憩を宣言。忠綱を呼び出して、二人きりで話しました。
「波多野殿のお気持ちは解る。だが此度の戦さは、三浦殿が和田を裏切ってくれたからこそ勝利できた。どうかそこを酌んで欲しい。もし波多野殿が政所前の先登をお譲り下さるのであれば、米町の先登については恩賞を2倍といたそう。いかがであろう?」
要するに義時は「忖度すれば、譲った手柄を買い取ろう」と言っているのです。また「先登の名誉は一戦さで一度あれば十分だろう?」とも。しかし、そんな要求を受け入れる忠綱ではありません。
「お断りします。武士たるもの、戦さの先登こそ最高の名誉。卑しくも先祖代々の誇りを受け継ぎ、弓馬の道に携わる以上、一戦さに何度であろうと先登を目指し続けます。いっときの欲に目がくらんで武功を売り渡すなど、末代まで家名を汚す真似はできません!」
「……まぁ、そうなるな」
譲ってくれないなら仕方ありません。果たして政所前の先登は忠綱か義村か、決着をつける審議が行われることとなりました。
果たして、審議の結果は?
……而爲知食彼眞僞。召忠綱。義村等於北面藤御壷内。爲行光奉行。將軍家出御。被上御簾。相州〔水干〕。大官令〔同〕民部大夫行光〔直垂〕等。被候廣廂。他人不臨其所。先召義村〔紺村濃鎧直垂〕。次召忠綱〔黄木蘭地鎧直垂〕。兩人候簀子圓座。遂對决。義村申云。義盛襲來之最前。義村馳向政所之前於南。發箭之時。雖微塵不飛行其前云々。忠綱申云。忠綱一人進先登。義村者隔忠綱子息經朝。々定等在後陣。而不見忠綱之由申。爲盲目歟……
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月4日条
さて、改めて源実朝(みなもとの さねとも)の前に呼び出された忠綱と義村。立会人は北条義時・大江広元(おおえ ひろもと)・二階堂行光(にかいどう ゆきみつ)。公正を期するため、他の者は遠ざけられます。
『吾妻鏡』にはこの時の服装がそれぞれ書かれており、折角なので紹介しましょう。
波多野忠綱…黄木蘭地(もえぎらんじ)鎧直垂
※黄木=萌黄(萌葱)はネギの新芽を思わせる鮮やかな黄緑。蘭地は不明(梨地のように、表面処理の一種と推測される)、そのような染め糸で縅(おど)された鎧を直垂の上に着用。
三浦義村……紺村濃(こんむらご)鎧直垂
※村濃はあえて色ムラを演出した染め方(作り手のセンスが問われそうですね)。そのように染めた糸で縅した鎧を、直垂の上から着ています。
義時と広元……水干(すいかん。武士の正装)
二階堂行光……直垂(ひたたれ。武士の普段着)
さて、本題に戻ってまずは義村の証言から。
「和田勢が襲来した際、それがしは政所の前を南に向かってひた駆けて矢を射放ちました。その時、たとえ塵一つであろうとそれがしの前に飛んではおりませんでした」
これに対して、忠綱は反論します。
「何を申すか。それがしこそ真っ先に進んでおった。三浦殿は我が子ら(波多野経朝、波多野朝定)より更に後ろからついてきておったではないか。それで我らの姿が見えないとは、そなた盲目ではないのか?」
その言い草は、いくら何でも無礼であろう!……お互い言い争っていても埒が明かないので、当時一緒に戦っていた者たちの証言を求めます。
……依之被尋于彼時之戰士等。皇后宮少進。山城判官次郎。金子太郎答申云。赤皮威鎧。駕葦毛馬之軍士先登云々。是忠綱也。件馬者自相州所令拝領也。号片淵云々……
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月4日条
呼ばれたのは皇后宮少進(こうごうぐうのしょうじょう。詳細不明)・二階堂行村(にかいどう ゆきむら)・金子太郎(かねこ たろう)の3名。
それぞれ口を揃えて証言するには「赤革縅(あかがわおどし。糸の代わりに赤い革ひもで縅した鎧)を着て、葦毛の馬に乗った者が我らの先頭を走っていました」とのこと。
「ほれ見ろ、それがしの事ではないか!」
さぁ忠綱のドヤるまいことか。なお、この葦毛馬は名を片淵(かたぶち)と言い、かつて義時が忠綱に与えたものです。
これで勝負あり。かくして忠綱は米町と政所の二カ所で先登を果たしたことが認められたのでした。
余計な一言で恩賞がパァに
しかし、討論の場で義村を「盲目」とけなしたことが問題視され、けっきょく忠綱は恩賞をお預けに(息子の波多野次郎経朝らはちゃんと恩賞に与れました)。
……波多野中務丞忠綱事。於無双軍忠者。雖不及御疑。於御前對决之時。以義村稱盲目。爲惡口之上。以不加賞。可准罪科之由。有沙汰。所被閣也。子息次郎經朝賞事者被行之……
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月7日条
まさに口は禍の元、余計な一言で恩賞がパァに……でもいいんです。名誉だけは死守できたのですから。
義時の権勢にも屈せず、また義村ほどの巧者を面罵してなお無事だった者は、後にも先にもそうはいないことでしょう。
そんな波多野忠綱のエピソードは、坂東武者の反骨精神を表す痛快事として伝えられています。
※参考文献:
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 7頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月
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