北条泰時(演:坂口健太郎)の妻・初(演:福地桃子。矢部禅尼)。三浦義村(演:山本耕史)の娘で幼なじみな彼女は、絶妙な距離感で夫を支え続けてきました。
父・北条義時(演:小栗旬)の真意に気づかない泰時をビンタしたり、和田合戦に際して酔いつぶれる泰時に水をぶっかけたりなど、なかなか強烈なキャラクターで視聴者の心をわしづかむ初。
しかし残念ながら、史実において泰時と初は離婚しているのです。今回はそんな初(矢部禅尼)の「その後」について紹介したいと思います。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では描かれない(そんなことをやっている尺がない)でしょうが、「実際はこうだったんだな」というご参考まで。
※以下、初について矢部禅尼(やべのぜんに)で統一します。
泰時と別れ、再婚した相手も酒好きで……
北条泰時と矢部禅尼が離婚した時期についてはっきり書かれた史料はないものの、泰時の次男・北条時実(ときざね)は継室の安保実員女(あぼ さねかずのむすめ)が建暦2年(1212年)に産んでいます。なので、それ以前に離婚・再婚していることは間違いないでしょう。
一方の矢部禅尼は従叔父(いとこおじ)に当たる佐原盛連(さはら もりつら)と再婚。佐原盛時(もりとき。後に三浦盛時)・佐原光盛(みつもり。後に会津光泰)・佐原時連(ときつら。後に芦名時連)を生んでいます。
※息子たちの苗字については諸説あり。ここでは『系図纂要』のものを採用。
それでは夫と息子たちについて『系図纂要』の紹介を見てみましょう。
【佐原盛連】
二郎兵衛尉 遠江守 従五下 住相州芦名■為称号
号悪遠江守※『系図纂要 四十八 平氏 三』平朝臣姓 佐原 蘆名
【意訳】通称は二郎兵衛尉(じろうひょうゑのじょう)。官職は遠江守、位階は従五位下。相模国三浦郡芦名郷(現:神奈川県横須賀市)に住み、芦名氏を称した。人呼んで「悪遠江守(あくとおとうみのかみ)」。
この二つ名は嘉禄2年(1226年)、酒乱によって暴行事件を起こしたことに由来します。
……近日在京武士遠江國司、其妻武蔵太郎時氏母也、仍可付時氏由関東許之云々、本自酔狂、飛騨前司知重、白拍子奉行人、官軍其一也 印太兵衛、雅親卿一物、於彼宅亂舞之間酔卿、知重被折肱、印太被蹂躙云々、又酔中馳出向宇治、夜中假宿所之間、宇懸多被摧破、向後尤可恐事歟……
※藤原定家『明月記』嘉禄2年(1226年)1月24日条
【意訳】近ごろ上洛してきた遠江守、その妻は北条時氏(ときうじ。泰時の長男)の母である。よって時氏の補佐役を務めていたのだが、元から酒乱で飛騨前司知重(ひだのぜんじ ともしげ。八田知重?)と印太兵衛(いんの たひょうゑ。源雅親の庶子)に暴行を加えた。知重は肱(ひじ)をへし折られ、太兵衛はさんざんに痛めつけられたという。更には宇治まで出かけて夜中に仮宿所(誰の?)を摧破(さいは。破壊すること)、恐るべきことである……。
厳罰に処された盛連。しかしそれでも乱行は収まらず、とうとう天福元年(1233年)5月に処刑されてしまいました。
……関東遠江守被誅云々、不拘制止京上、於途中被害、在京之時悪事犯乱非例人之故乎……
※藤原定家『明月記』天福元年(1233年)5月22日条
【意訳】関東で盛連が討たれたそうな。追放されたにも関わらず京へ上ろうとしたため、道中で討たれたという。かつて京都にいた時、例をみない悪事を働いたアイツらしい末路だ。
とまぁそんな具合。矢部禅尼との夫婦生活が心配になってしまいますね。泰時と言い盛連と言い、彼女の夫はどっちも酒好きでした。
ちなみに、彼女は夫の菩提を弔うために出家。三浦郡矢部郷(現:神奈川県横須賀市)に隠棲したので矢部禅尼と呼ばれたのでした(それ以前の呼び名は不明)。
それでは続いて、息子たちも見ていきましょう。
三浦一族の家督を継いだ盛時
【佐原盛時】
母 矢部禅尼
佐原五郎左衛門尉従五下三浦介
子孫在副※『系図纂要 四十八 平氏 三』平朝臣姓 佐原 蘆名
【続き】
遠江守盛連四男
佐原五郎左衛門尉 従五下 三浦泰村亡而後補三浦介
會加納庄 法名浄蓮※『系図纂要 四十八 平氏 三』平朝臣姓 三浦
通称は五郎左衛門尉(ごろうざゑもんのじょう)。位階は従五位下、本家の三浦泰村(やすむら。義村の嫡男)一族が滅亡した後、三浦介に補(ぶ)されました(家督を継承)。
三浦本家は宝治元年(1247年)6月5日、第5代執権・北条時頼(ほうじょうときより。泰時の孫)との権力抗争に敗れたことで滅んでしまいます(宝治合戦)。
この時、盛時ら兄弟は三浦一族ではなく北条方に与したため、鎌倉代々の名門である三浦の家督を許されました。
兄弟の(三浦よりも北条に与した)判断には母である矢部禅尼が影響していると見られ、もしかしたら「元夫(泰時)の子孫に味方しなさい!」と促したのかも知れませんね。
やがて時頼が没すると三兄弟そろって出家、盛時は浄蓮(じょうれん)と号しました。
光泰(光盛)と時連
【佐原光泰】
母同 本光盛
佐原二郎左衛門尉 従五下 遠江守
食會津大沼二郎
承久元年六ノ光盛迎将軍于京帥※『系図纂要 四十八 平氏 三』平朝臣姓 佐原 蘆名
元の名前は光盛(みつもり)、通称は二郎左衛門尉(じろうざゑもんのじょう)。位階は従五位下、遠江守の官職を授かっています。会津(ここでは現:福島県大沼郡)を領して大沼二郎(おおぬま じろう)と呼ばれることも。
承久元年(1219年)6月、第4代鎌倉殿となる三寅(みとら。後の藤原頼経)を迎えに上洛。『系図纂要』によると、彼の子孫は数代にわたり栄えています。
【佐原時連】
母同 子孫在副
佐原芦名六郎左衛門尉 従五下※『系図纂要 四十八 平氏 三』平朝臣姓 佐原 蘆名
【続き】
遠江守盛連七男 母矢部禅尼
佐原六郎左衛門尉 従五下
法名觀蓮※『系図纂要 四十八 平氏 三』平朝臣姓
通称は六郎左衛門尉(ろくろうざゑもんのじょう)。位階は従五位下、官職は左衛門尉です出家に際して観蓮(かんれん)と号しました。その子孫は奥州の戦国大名・芦名氏として活躍することになります。
終わりに
以上、矢部禅尼と再婚した佐原盛連と三人の息子たちを紹介してきました。
晴。武州前刺史禪室後室禪尼依不食所勞逝去〔季七十〕。相州依此事着服。五十日御服暇云々。
※『吾妻鏡』建長8年(1256年)4月10日条
やがて矢部禅尼は70歳で世を去り、孫に当たる北条時頼が50日間の喪に服します。北条家を去っても味方してくれた彼女に対して、浅からぬ恩義を感じていたことでしょう。
話を戻して、矢部禅尼はどんな事情で泰時と離婚しなければならなかったのか、今後の究明が俟たれます。
※参考文献:
- 飯田忠彦『系図纂要』国立公文書館デジタルアーカイブ
- 藤原定家『明月記 第二』国立国会図書館デジタルコレクション
- 藤原定家『明月記 第三』国立国会図書館デジタルコレクション
- 北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社、2001年6月
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