「こんなことで音をあげるな。きさまが今までにしてきたことにくらべれば何の苦しみでもあるまい。だが、やめてもらいたいのなら、素直になれ、わるいようにはせぬ、どうだ・・・・・・いえ。いってしまえ、その野槌の弥平の隠れ家をいってしまえよ。どうだ、らくになるぞ・・・・・・いわぬか。よし、もっと蠟をたらしこめ」
引用:池波正太郎(2017).『鬼平犯科帳1』.文芸春秋
これは天明7年(1787)、火付盗賊改方の頭に就任したばかりの長谷川平蔵が、なかなか口を割らない下手人に新手の拷問を行い、盗賊一味の隠れ家を自白させるという池波正太郎の『鬼平犯科帳』の一場面である。
足の甲へ五寸釘を打ち込み、傷口にぽたぽたと蝋をたらしこませるというすさまじさだが、実際にこのようなやりたい放題の拷問が本当に行われていたのだろうか?
今回は江戸時代に行われた拷問について解説する。
なぜ拷問が行われたのか?
江戸時代と現代との決定的な違いは、罪人を処罰するには必ず「自白」が必要とされた点である。
犯罪の証拠が完璧にそろっていようと、証人が何人いようと、犯人の自白がなければ断罪することはできなかったのだ。
牢屋にぶち込まれた囚人は奉行所で「吟味」を受ける。吟味とは事情聴取のことで、与力は証拠を提示し自白へと導いていく。
そしてどうしても囚人が自白しない場合には、拷問が用いられることになる。
江戸時代の拷問の種類
江戸時代初期には戦国時代のなごりから残忍な拷問が行われていたが、八代将軍吉宗が「公事方御定書」を制定し、拷問は制度化された。
江戸時代中期以降、公式に認められている拷問は、笞打(むちうち)、石抱(いしだき)、海老責(えびぜめ)、釣責(つるしぜめ)の四種類で、笞打、石抱は「牢問」とよばれ、拷問とは区別された。
一つずつ解説していこう。
・笞打
笞打(むちうち)は、後ろ手に太縄で縛られ、肩の肉の盛り上がったところを箒尻(ほうきじり)という棒で何度も打たれる拷問である。
途中破れた皮膚から出血することがあるが、打役は砂で傷口を止血し、その上からさらに容赦なく打ち続ける。
多くの場合、最初に縛り上げられただけでその耐え難い痛みに泣きわめき、数回叩かれただけで自白するという。
・石抱
笞打で自白しない者は、次の段階である石抱(いしだき)へと進む。
石抱は上図のように算盤板と呼ばれる三角形の材木を五つ並べた台座の上に囚人を正座させ、上半身と柱を縄で括り付けた後、太ももの上に重さ13貫(約49キロ)の石板を載せていくという拷問である。
1枚1枚載せていくのだが、脛の部分に角材が食い込み、たいてい2,3枚で苦痛に耐えかねて自白するという。
・海老責
石抱に耐えた者は、海老責(えびぜめ)へと進む。
海老責は、囚人を後ろ手にし、あごと両足首が密着するまで体を前方に折り曲げて縛り上げ、そのまま放置する。放置しすぎると絶命してしまうため、体の色が赤から紫、蒼白く変わった頃合いが止め時とされた。
・釣責
海老責を耐え抜いた者がたどり着くのが、最終手段の釣責(つるしぜめ)である。
正規の拷問と呼ばれた釣責は、上半身を裸にし、後ろ手に縛り上げ梁に吊るす。
時間がたつにつれ縄が肉にくい込み血行障害を起こし、2,3時間もするとつま先から血がしたたり落ち、その苦痛は想像を絶するものだったという。
拷問に耐えた者は特別扱い
拷問にかけられる者は、執行される日を下男などから密かに知らされるようで、牢名主から拷問の詳しい内容や耐える技を教えてもらえた。
執行当日は牢名主から叱咤激励を受け、自白しなかった囚人は牢に戻ると牢仲間から酒を吹きかけられ拷問で弱った体を強くもんでもらえる。
本人は痛さに絶叫するのだが、こうすることで体の回復が早くなるという。
一方、自白して戻ってきた者は何もしてもらえず、そのまま放置されたという。
拷問よりも吟味
自白を得るための手段として拷問が公式に認められていたことは事実だが、拷問には明確な手順や規則が定められており、厳しく制限されていた。
まず、拷問して良いのは死刑に該当する重罪を犯した囚人で、明白な証拠が揃っている場合に限られていた。また、笞打、石抱、海老責までは町奉行の権限で行えたが、釣責は老中の許可が必要だった。執行には書物役や目付などの立会人を置かなければならず、その中には囚人に異変が起きた場合に手当をする医者も含まれていた。
このように江戸時代の拷問は厳しい条件の下でのみ認められており、拷問が行われるのは吟味をする役人の腕が悪いからだと考えられていた。
そのため、拷問はみだりに用いるべきものではなく、まずは白状するように言い聞かせることが基本とされた。
火付盗賊改は別格
幕府が重罪である放火や盗賊などを取り締まるために設けた役職が、火付盗賊改である。
町奉行所では手に負えないような凶悪犯を捕らえるため、町奉行を凌ぐ権限を持っていた。
文官の町奉行に対し火付盗賊改は武官であり、取調べは乱暴になる傾向があった。厳しく制限されていた拷問を躊躇することなく行い、時には幕府によって定められた規定以上の拷問まで行うこともあったという。
ちなみに、海老責の考案者は、火付盗賊改の中山勘解由だったと言われている。
参考文献:横倉辰次(2003).『江戸牢獄・拷問実記』.雄山閣
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