目次
はじめに
1912年4月15日、当時世界最大と称された豪華客船「タイタニック号」はニューヨークに向けての航海中、北大西洋沖で巨大な氷山に衝突。1514人もの死亡者を出したこの海難事故は、当時としては最大級の海難事故であり、世界に大きな衝撃を与えました。
幸い、タイタニック号に乗船していた710人は生存者として生き残り、その中には日本人の乗客もおり、様々な人種と職業の乗客がいたことが伺い知れます。
さて、そんな生存者の中で一際異彩を放つ人物がいました。その人物というのが今回紹介するバイオレット・ジェソップです。
彼女は生涯3度の海難事故に遭遇するのですが、乗船した船がタイタニック号を含め、全てタイタニック号に深い関係を持つ船だったというので驚きです。
3度の海難事故から奇跡の脱出を果たした「ミス不沈艦(Miss Unsinkable)」とは如何なる女性だったのでしょうか?
オリンピック級豪華客船について
彼女の生涯に触れる前に、少し「タイタニック号」という船が建造された経緯についてご説明いたします。
1907年、イギリスの重工業メーカーであるハーランド・アンド・ウルフ社の会長が海運会社ホワイト・スター・ライン社のジョセフ・ブルース・イズメイ社長に3隻の巨大客船の計画を持ちかけます。
それによって発案されたのがオリンピック級豪華客船の建造計画であり、1番艦オリンピック、2番艦タイタニック、3番艦ブリタニックの三隻の建造が決定。3隻はアイルランド・ベルファストにて起工されたため、「オリンピッククラス三姉妹」と称されます。
1910年10月、1番艦オリンピック号が進水を開始。全長269メートルに及ぶその大きさは当時の船としては最大級の大きさであり(※ちなみに日本で有名な超弩級戦艦大和の全長が263m)、その姿から「絶対に沈没しない」という伝説が巷で噂されるほどでした。
しかし、この3隻の浮沈神話は大きく裏切られる結果となってしまうのです…。
バイオレット・ジェソップの生い立ち
ここで今回の記事の主役であるバイオレット・ジェソップの生い立ちについてお話しします。
1887年10月、バイオレットはアルゼンチンのバイアブランカ近郊でアイルランド移民のウィリアムとキャサリン・ジェソップの長女として生まれました。また彼女は9人兄弟の長女であり、幼少期の頃から幼い兄弟の世話に時間を費やしていたので、献身的な性格の持ち主でした。
幼い時に結核と見られる病気に罹り、死の淵を彷徨いますが奇跡的に回復。しかし、今度は父親が亡くなってしまったため、ジェソップ一家はイギリスへと移住し、彼女は修道女の学校へと通います。
その後、母親のキャサリンが客室乗務員として一家を支えていたのですが、キャサリンが病気となってしまったため、ジェソップは学校を退学し、自分も客室乗務員として働くことを決意します。この時、彼女は雇ってもらうためワザとボロボロの服を着て面接に行ったと言います。
晴れて客室乗務員に採用されたジェソップは1908年、アメリカ大陸オリノコ川を運行するロイヤルメールライン(英国郵便船)に乗り込み初仕事に従事します。このときジェソップ21歳。この後、まさか彼女が3度も大きな海難事故に遭遇するとは、一体誰が想像できたでしょうか…。
1度目の海難事故 オリンピック号衝突事件
1911年、ジェソップはホワイト・スター・ライン社の超大型客船オリンピック号の客室乗務員に採用され、ここで働くことが決まります。
当時最大の豪華客船の乗務員として働けることに鼻高々なジェソップでしたが、実はこのオリンピック号、処女航海にて海上を走るタグボートを巻き込みそうになったりと、操船に関しては不安材料を残していたのです。
そんな不安材料を抱えたまま1911年9月20日、ジェソップが乗船したオリンピック号はイギリス南部の港サウサンプトンを出港。無事に出航したと思ったのも束の間、なんとオリンピック号はイギリス本土近くのソレント海峡にて、イギリス海軍巡洋艦ホークと衝突してしまいます。
この衝突事故でオリンピック号の左舷側面には大きな穴が空き、巡洋艦ホークは艦首が粉砕するという大事故となったのですが、幸い死者はなく 、両艦損傷はあったものの、船は沈没することなく無事サウサンプトンに帰港することができました。
ジェソップは回想録ではこの事件については触れていませんが、その後も彼女はオリンピック号に乗務員として勤めており、1912年4月に姉妹船タイタニック号に異動するまで、オリンピック号に在籍しています。
2度目の海難事故 タイタニック号沈没事件
オリンピック号の事故から半年ほどが経ち、ジェソップはタイタニック号の客室乗務員と勤務することになります。ジェソップがタイタニック号に異動した経緯は不明ですが、おそらくオリンピック号の修理に時間を要したため、その間2番艦のタイタニック号に勤務するよう要請されたのではないかと思われます。
こうして1912年4月10日、ジェソップは客室乗務員としてタイタニック号に乗船するのですが、またしても災難が彼女の身に降りかかります…。
サウサンプトンを出航したタイタニック号はニューヨークに向かい大西洋を横断。航海は順調に進んでいると思われたものの、出航から4日後の夜、巨大な氷山がタイタニック号の前方に突如出現。
タイタニック号は緊急回避を行うものの、右舷側に斜方向から氷山の直撃を受け全16区画のうち5つの区画に穴が空き、船内に浸水。船体沈没の進行は予想よりも早く、船長とクルーは、やむなくボートに女性と幼い子供が優先的に乗せるよう命じます。
このときジェソップは客室乗務員として、英語ができない外国人達に救命胴衣の付け方や避難経路について必死に対応していました。自身の安全より乗客の安全を最優先していたのです。
その後、彼女はクルーから救命ボートに乗るように指示され、ボートに乗り込むのですが、この時クルーから身元が分からない赤ん坊を世話するよう頼まれたため、これを引き受けます。
氷山衝突から約2時間40分後、タイタニック号は完全に沈没。海に放り出された乗客のほとんどは低体温症のため溺死してしまいました。翌朝、現場に駆け付けたカルパチア号によって生存者は救出されます。
また、カルパチア号甲板にて赤ん坊の母親と見られる人物がジェソップの下に駆け付けるのですが、母親は赤ん坊をジェソップから受け取ると、何も言わず涙を流して立ち去ってしまったと言います。
沈没事故から3日後の4月18日の夕方にタイタニックの生存者を収容したカルパチア号はニューヨークに到着。1514人もの死亡者を出す当時最大の海難事故でした。
3度目の海難事故 ブリタニック号沈没事件
奇跡的にタイタニック号から生還したジェソップはサウサンプトンに戻り、再び客室乗務員として働きます。
しかし、一方で世界は不穏な情勢へと変化しており、タイタニック号の事故から2年後の1914年7月に第一次世界大戦が勃発します。
イギリス海軍は戦線拡大のため民間企業にも協力を要請し、翌年に竣工したばかりのオリンピック級3番艦であるブリタニック号を急遽徴用。ブリタニック号は豪華客船から巨大な病院船へと換装されます。
この時、ジェソップは英国赤十字社に勤務しており病院船に乗船していたのですが、英国海軍よりブリタニック号の乗船を要請されたため、ブリタニック号へと異動します。
こうして、病院船となったブリタニック号は地中海各地を回り、多くの傷病兵を助けて活躍するのですが、何の因果かブリタニック号とジェソップにまたしても危機が迫ります。
1916年11月、ブリタニック号はエーゲ海リムノス島に向けサウサンプトンを出航。1065名の乗務員を乗せた船は途中イタリアのナポリに寄港し、エーゲ海ケア海峡を全速力で突破しようとします。
しかし、ここでブリタニック号に爆音が響き渡ります。なんと、ドイツ海軍が仕掛けた機雷がケア海峡に設置されており、それがブリタニック号に接触してしまったのです。
船長と乗務員らの対応は素早く、本来ならブリタニック号は浸水を防げることが出来たのですが、看護師らが舷窓を開けていたことと、爆発の衝撃によりボイラー室の水密扉が閉まらなかったことが原因で6つの区画が浸水。わずか10分で氷山衝突から一時間のタイタニック号と同じ状態となってしまったのです。
この状態を恐れた乗務員は命令を待たず救命ボートを降ろしたのですが、なんと船尾のスクリューが海面に露出していたため、乗務員を満載した救命ボートはスクリューに巻き込まれ全員が死亡。
この時、もう一台の救命ボートにジェソップは乗っていたのですが、スクリューに巻き込まれる直前にボートから飛び降りたため、間一髪で助かります。
こうして1916年11月21日午前8時50分ごろ、ブリタニック号は沈没。幸い、タイタニック号の教訓を受け、ブリタニック号は多くの救命ボートを搭載していたため、スクリューに巻き込まれた約20名以外は生存することができました。
ボートから飛び降りたジェソップは頭蓋骨陥没という重症を負うも、命に別状はなく三度生き残ることに成功します。また、このときの惨状をジェソップはこう語っています。
「すべての甲板機械は子供のおもちゃのように海に落ちました。それから恐ろしい急降下、船尾は咆哮を立て数百フィート空中に立ち上がり、最後の轟音とともに深みに姿を消しました」
その後
第一次世界大戦終結後の1920年、ジェソップはホワイト・スター・ライン社に復職。その後の第二次世界大戦中も客室乗務員として勤務し、戦後の1950年に波乱に満ちた客室乗務員の職歴に幕を閉じました。
引退から数年後の嵐の夜に、ジェソップの下にある女性から電話が鳴ります。彼女は「あなたはタイタニック号が沈んだ夜に赤ちゃんを救った女性か?」と尋ねられると、ジェソップは素直に「はい」と答えました。
すると、女性は「あのときの赤ん坊は私です」そう言うと彼女は笑いながら電話を切ってしまいました。
後日、友人で伝記作家のジョン・マクストン・グラハムにこのことを話すと、彼は「いたずら電話では?」と疑ったのですが、ジェソップがこのことを話したのはこれが初めてであったことと、その後、ジェソップがタイタニック号で助けた赤ん坊が生存していたことが分かったため、電話の主が大人になった赤ん坊であったことが証明されます。
1971年、ジェソップは83歳でこの世を去ります。
3度の海難事故を生き延び「ミス不沈艦(Miss Unsinkable)」と呼ばれた女性についてご紹介致しました。
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