思想、哲学、心理学

教育者としてのカント 「超絶ブラックな労働環境だった!」

もっとも有名な哲学者は?

あなたの知っている、有名な哲学者は誰ですか?」と聞いたとき、「カント」と答える人は多いのではないでしょうか。

18世紀のドイツ(プロイセン)に生まれたカントは、57歳のときに『純粋理性批判』という本を発表し、今までの哲学を根本から覆したと言われています。

カント以前の哲学は、あくまでもキリスト教を前提としており、神との関係性のなかで語られていました。神の存在を否定するなど、もってのほかです。しかしカントは、神と人間の関係性をぶった斬ります。詩人のハイネは「カントは神の首を切り落とした」と表現するほどです。

今回の記事では、カントの哲学を紹介するのではなく、教育者としてのカントを見ていきたいと思います。

歴史に名を残すほどの人物ですから、さぞかし優雅な生活を送っていたと思うかもしれません。

しかしカントの教員生活は、現在の教員を彷彿とさせるほどのブラックな労働環境だったのです。

教育者としてのカント

画像:イマヌエル・カント public domain

ケーニヒスベルク

1724年の4月、イマヌエル・カントはケーニヒスベルクという町で生まれました。

バルト海に面した貿易都市であり、当時はプロイセンの飛び地でした。人口は約6万人で、プロイセンでも有数の大都市でした。イギリスやオランダの商船が港に出入りし、植民地の物産品などを頻繁に運ばれてきました。ケーニヒスベルクのような貿易都市にいることで、カントは「旅行しなくても世界の出来事を知ることができた」と述べています。

現在のケーニヒスベルクは、ロシア領であり「カリーニングラード」と呼ばれています。

カントが16歳のとき、ケーニヒスベルク大学に入学します。大学では哲学や数学、物理学を学び、22歳で卒業しました。卒業後しばらくは、貴族や商人の家庭教師として生計を立てています。

そして31歳のとき、母校ケーニヒスベルク大学で私講師となりました。

教育者としてのカント

画像:ケーニヒスベルク城 public domain

ブラックな教員生活

私講師とは無給の教員になるため、大学からの給料(固定給)はありません。固定給をもらえる正教授に採用されたのは、カントが46歳のときでした。

それ以前の約15年間は、経済的に不安定な生活を送っていたことになります。

講義の内容を宣伝(営業)して学生を集め、その受講料が私講師の収入になるのです。カントが大学で開講した科目は多岐にわたります。論理学、形而上学、物理学、数学、自然地理学、倫理学、工学などを担当していました。

生活のためには多くの受講生を集めて、お金を稼がなければなりません。この時期のカントは、週に最低16時間、最大28時間の講義をこなしていたと言われています。毎日5時間から6時間の授業をしていた計算です。

現在の教員でも真っ青の授業数をこなしたカント。しかも担当する科目も幅広いため、授業準備には相当な時間を要したはずです。

アルニセイ・グリガという哲学者が書いた著書『カント』には、私講師時代だったカントのスケジュールが紹介されています。ある1日の流れは以下のとおりです。

①午前8時から9時まで「論理学」
②午前9時から10時まで「力学」
③午前10時から11時まで「理論物理学」
④午前11時から12時まで「形而上学」
(昼食)
⑤午後2時から3時まで「自然地理学」
⑥午後3時から4時まで「数学」

信じられないスケジュールですが、同時代を過ごしたヘーゲルアダム・スミスも、カントと同じように授業をこなしています。

カントを含めて当時の哲学者は、自身の生活がかかっていたため、ハードな状況でも努力しなければなりませんでした。

正教授になったカントは落ち着いてしまった?

カントは母校のポストが空くのを辛抱強く待ち続けます。そして1770年、ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学の正教授に就任しました。このとき46歳でした。1801年に退職するまでの約30年間、ケーニヒスベルク大学に勤めたことになります。私講師時代を含めると、約45年間です。

正教授になったあとも、講義の負担は相当なものでした。週に4日、1日7時間から9時間、水曜日と土曜日は8時間から10時間の講義があり、さらに土曜日も復習の講義が行われました。カントは当たり前のようにこなしていたそうです。

カントは正教授になったあと、10年以上も何も書かなくなりました。私講師時代にはたくさんの著作を執筆したカントですが、正教授になって安定した生活が訪れたことで「研究をやめたのではないか」と陰口を叩かれました。

しかし、そうではありません。これまでの哲学を根本から覆すような理論を、カントは構想していたのです。

1781年、カントが57歳のときに、11年の沈黙を破って『純粋理性批判』が発表されます。そのあとも重要な著作を次々と生み出していきました。

・『道徳形而上学原論』(61歳)
・『純粋理性批判』第2版(63歳)
・『実践理性批判』(64歳)
・『判断力批判』(66歳)

まさに破竹の勢いです。

教育者としてのカント

画像:『純粋理性批判』の初版 public domain

晩年のカント

しかし70代になると、カントのエネルギーも急速に衰え始めます。72歳になると体力が持たず、講義を行うこともできなくなります。1796年夏に実施した講義が最後となり、1798年に出版した『人間学』が最後の著作となりました。

1801年11月には、大学に退職届を提出しています。77歳になったカントは、文章を書くことさえできなくなっていました。退職届は知人に書いてもらい、カントは署名するだけだったそうです。

そのあとカントは数年間生き続けましたが、老化は進みます。再会を喜び、抱きしめる友人に対して「あなたは誰ですか?」と尋ねたそうです。老いたカントは耳もよく聞こえず、目もよく見えず、一人で歩くこともできない状態になってしまいました。

生涯独身だったカントの介護は妹がしています。

そして1804年2月12日の午前11時、老衰によってカントは亡くなりました。このとき79歳、あと2ヶ月で80歳でした。

終わりに

カントが45歳まで勤め上げた、当時の私講師には固定給がありませんでした。自分の生活を支えるためには、授業を数多くこなすだけではなく、生徒を集めるために自身の評価も気にしなくてはいけません。当時の教員は嫌でも努力しなくてはいけない環境だったのです。

現在の教員は長く勤務すればするほど、給料が上がっていくシステムです。私は10年ほど高校教員をしていました。先輩の授業を見学する機会が年に何回かあるのですが、その先輩教員は20年前と同じ授業を行い、教室にいる生徒の半分は別の世界に旅立っていました。

私が在籍した学校においては、コロナ禍で授業のできなかった年度が、近年でもっとも進学実績がよかったそうです。生徒アンケートに「自由に勉強できてよかった」という回答を見て、学校や教員の在り方について少し考えてしまいました。

カントが過ごした時代の教員は大変な労働環境でしたが、学生の立場から考えると、恵まれた環境だったと思います。努力しなくても教員の給料が自動的に上がっていく、現在のシステムは見直しが必要かもしれません。

参考文献:木田元『反哲学史』講談社、2000年4月

 

村上俊樹

村上俊樹

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“進撃”の元教員 大学院のときは、哲学を少し。その後、高校の社会科教員を10年ほど。生徒からのあだ名は“巨人”。身長が高いので。今はライターとして色々と。
フリーランスでライターもしていますので、DMなどいただけると幸いです。
Twitter→@Fishs_and_Chips

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