戦国時代、海道一の弓取と恐れられ、ついには天下を獲るにいたった徳川家康(とくがわ いえやす)。その覇業を支えたのは、無数の忠臣たちでした。
今回はそんな一人・山田重則(やまだ しげのり)を紹介。その活躍を、覚えていただけたら嬉しいです。
数々の戦さで武勲を重ねる
山田氏は平安時代、浦野太郎重直(うらの たろうしげなお)が尾張国春日井郡山田郷に住んだことから山田の苗字を名乗りました。
山田重則はその21代子孫となります。
【山田氏略系図】
浦野太郎重直ー(2代略)―山田次郎重忠―(3代略)―山田太郎重泰―山田彦次郎重頼ー(8代略)―山田左近―山田内匠助重宣ー(2代略)―山田重則
※『寛政重脩諸家譜』巻第三百二十四 満政流 山田
重則は天文元年(1532年)生まれ、通称は十大夫(じゅうだゆう)。若いころから徳川家康に仕え、数々の武勲を重ねました。
やがて織田家臣である神戸弥七郎(かんべ やしちろう)の娘を妻に迎え、永禄9年(1566年)には長男の山田重則(しげとし)を授かります。
元亀3年(1572年)12月22日の三方ヶ原合戦では、武田信玄に惨敗を喫した中でも闘志を失わず、敵と槍を合わせて首級を上げています。
また天正3年(1575年)5月21日の長篠合戦においても、重則は武田勝頼(かつより。信玄遺児)の軍勢を相手に二級の首(級は首の単位)を獲りました。
その後も諏訪原城の合戦、高天神城の合戦でも首級を上げ、さらに武勲を重ねます。
嫡男・山田重利の出奔
しかし天正11年(1583年)、息子の山田重利が家中で刃傷沙汰を起こしてしまいました。
年長の坂作主膳(さかさく しゅぜん)と口論に及び、あまりの言い草に耐え兼ねた重利が、主膳を斬り殺してしまったというのです。
重利はただちに浜松から出奔。父である重則は縁坐(えんざ。連帯責任による処罰)を覚悟しました。
「愚息が起こした此度の不始末、いかなる罰も謹んでお受け致します」
しかし家康は重則を赦して言いました。
「実は二人の口論が障子ごしに聞こえたのだが……」
聞けば重利は浜松城内での刃傷沙汰を避けるため、翌日に城外で決闘を申し込んだと言います。
「若年ながら実に立派な態度であった。今は探し出さず、折を見てまた召し抱えよう」
「……御意」
家康の寛大さに恐れ入った重則ですが、あまりの申し訳なさに置き手紙をして浜松を去り、三河へ引きこもったのでした。
小牧・長久手の合戦で討死
かくして家康の元を去った重則。しかし翌天文12年(1584年)、徳川家へ舞い戻ってきます。
「此度、筑前(羽柴秀吉)と一戦交えられるとの由。御家の一大事を座視するに耐えかね、恥を忍んで参上仕りました!」
「待っておったぞ十大夫。そなたがおれば心強い。また存分に働いてくれ」
「有り難き仕合せ!」
小牧・長久手の合戦に加わった重利。ここでも敵二名を討ってその首級を上げましたが、力尽きて討死してしまったのです。
享年53歳。その法名は永讃(えいさん)、生涯にわたって尽くした忠義を、末永く讃える意味でしょうか。
重則 十大夫
東照宮につかへたてまつり、元亀三年十二月二十二日三方原合戦のとき、敵と鎗をあはれて首を得、天正三年五月二十一日長篠にをいても、首二級を討取、そののち、諏訪原、高天神等の役にもまた首級を得たり。のち長男重利、坂作主膳某を討て立のきしとき、重則其事に縁坐せられずして、宥免ありし厚恩を感じ、一通の書をとどめて三河国に退去し、十二年四月九日長久手の戦ひに首二級を獲て、つゐに戦死す。年五十三。法名永護。妻は織田家の臣神戸弥七郎某が女。
※『寛政重脩諸家譜』巻第三百二十四 満政流 山田
父の遺志を受け継ぐ重利
以上、徳川家康に仕えた山田重則の生涯をたどってきました。
ちなみに、以前出奔した山田重利はやがて帰参し、井伊直政(いい なおまさ)に仕えます。
そして小田原征伐(天正18・1590年)や九戸一揆(天正19・1591年)などで武勲を重ね、家康の期待に応えたのでした。
後に徳川秀忠(ひでただ。家康嫡男)の配下となり、大坂夏の陣(慶長20・1615年)でも首六級を獲る大手柄を立てます。
ちなみに山田家は剣鳩酢草(けんかたばみ)の紋章を用いていましたが、今回(大坂夏の陣)の大手柄を聞いた秀忠から、三粼(みつすはま)の家紋を与えられました。
というのも、秀忠が首実検に臨んで「すはま」という菓子を食っていたから「これを家紋にせよ」と命じたのだとか。
家紋 三粼 要文字
今の呈譜に、もと剣鳩酸草を用ふ。重利大坂再陣のとき首を得て台徳院殿の実検に備へしかば、御手づからすはまといふ菓子三をたまひ、家紋にせよとの仰ありしより、三粼にあらたむといふ。
※『寛政重脩諸家譜』巻第三百二十四 満政流 山田
ちなみに「すはま」という菓子は大豆や青豆を炒って挽いた洲浜粉を水飴などで練って洲浜(浜辺の入り組んだ地形)を模したもの。お菓子に由来する家紋って、実にユニークですね。
ちなみにもう一つ使われている要文字(かなめもじ)とは、漢字の「要」を意匠化したもので、こちらもかなりの個性を感じます。
終わりに
その後も代々忠義を尽くした山田一族。冥土の重則も、さぞ満足だったことでしょう。
【山田氏略系図】
……浦野太郎重直-(2代略)―山田次郎重忠―(3代略)―山田太郎重泰―山田彦次郎重頼ー(8代略)―山田左近―山田内匠助重宣ー(2代略)―山田重則-山田重利-山田重恒-山田重政-山田豊重-山田重孝-山田利延-山田利寿-山田利往-山田左七郎……
※『寛政重脩諸家譜』巻第三百二十四 満政流 山田
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」には登場しないでしょうが、山田重則のような忠義の三河武士たちが多く家康を支えていたことを踏まえて鑑賞すると、より味わい深く楽しめるのではないでしょうか。
※参考文献:
- 高柳光寿ら編『新訂 寛政重脩諸家譜 第6』平文社、1964年12月
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