首取りとは
戦国時代の合戦では、武士は倒した敵方の首を斬って持ち帰った。
この「首取り」は武士の活躍を示す証拠として必要だった。
南北朝最強武将と言われた高師直(こうのもろなお)は、敵を討っても首を取らずに証人に確認させるだけで良いという「分捕切棄の法(ぶんどりきりすてのほう)」を採用した。
このおかげで、兵は重い首を持ち歩く必要がなくなり、戦闘力を維持することができたという。
しかし、これでは証人同士が申し合わせを行なって虚偽の申告をすることもあるので、やはり首取りが一般的であった。
宝蔵院槍術の使い手で、数々の武将を渡り歩いた可児才蔵(かにさいぞう)は1つの戦いで16もの首を取った。
全て持ち運ぶのは不可能だったため、自分が討った者の口に笹を咥えさせたことで「笹の才蔵」という異名がついた。
笹はお酒と同じ意味合いを持ち、討ち取った者への礼儀として笹を咥えさせたという。
吉凶を占った
戦国時代は、討ち取った首で吉凶を占っていたという。
どうやって吉凶を占っていたのだろうか?
全ての首が目を閉じていたわけではなく、斬られた瞬間の様々な表情が見られた。その表情から自軍にとっての吉凶を占っていたという。
右眼(右方向を見ている)※味方にとって吉
左眼(左方向を見ている)※味方にとって不吉
天眼(上目になっている)※凶だが武田家では吉
地眼(↓方向を見ている)※吉だが武田家では凶
仏眼(両目が閉じられている)※穏やかな死に顔は吉
片眼(片方だけ眼が開いている)※どちらか片目のみ閉じているのは大凶
片眼で歯噛み(片目(特に左目)で歯をくいしばっている)※最たる凶相
特に不吉とされたのは歯をくいしばる「歯噛み」の首で、首祭りをして祟りを払ったそうだ。
また、片目を閉じた首も不吉とされ、中には敵を凶とするために死ぬ間際に片目を閉じて亡くなった強者もいたらしい。
両目を閉じて優しげで落ち着いた表情の首は「仏眼(ぶつげん)」と呼ばれ吉とされた。
右に目が向いているのは味方にとっては吉で、敵にとっては不吉とされた。
反対に左に目が向いているのは敵にとって吉で、味方にとっては不吉とされた。
このように左右で意味が違うのは「左は生につながり、右は死につながる方向」という当時の考え方に影響されている。
首を正面にして吉凶判断をするため、目が右を向いているのは見ている者にとっては左側となる。
首のその後
首実検が終了すると、勝利した新しい領主の誕生を知らせるために、首は獄門台に乗せられて見せしめにされた。
首を捨てる時は北の方角と決められていたようで、北には逃げるという意味合いがあったからだという。
格式の高い武将の場合は、首桶に入れて丁重に敵に送り返した。
また、首塚を立てて手厚く弔うこともあったそうだ。
恐怖の首実検
首実検は、合戦に勝った時の儀式の1つで、討ち取った生首を洗って血や砂などを落とし、必要であれば死に化粧まで施した。
そして首に名札をつけて誰の首なのかを明確にし、木の台の上に置いて検分した。
当然家臣の論功行賞のためだが、それ以外にも「討ち取られた者に対する慰霊」という目的もあったようだ。
祟られないために、呪術に通じた者が儀式を執り行ったとされている。
一般的に首実検の際には、甲冑を身に着けるなど正装で臨んでいた。
万が一、首が飛んでくることに備えて、弓矢を射る者まで準備させ、大将が太刀に手をかけて行うこともあった。
しかし、中には織田信長が行ったような特殊なケースもある。
『常山紀談』には、「信長が武田勝頼の首を罵り、杖で2回つついた後に足蹴りにした」という、目を疑うような行為が書かれている。
『万代記』には、毛利元就の驚きの行動が記されている。
相手は厳島の戦いで討ち取った大内軍の陶晴賢(すえはるたか)である。よほど恨んでいたのか、元就は陶の首にムチを3度も振り下ろしたという。
祟りはあったのか?
当時は「祟り」が恐れられていた時代だったが、果たして本当に「祟り」はあったのだろうか?
『羽陽軍記』には、最上義光のこんな逸話が記されている。
慶長5年(1600年)最上・伊達家と上杉家の間で、奥州の関ケ原と言われた「長谷堂城の戦い」が起こった。
戦いは上杉家が敗れ、上杉勢の上泉泰綱が討ち取られて首実検が行われた。
しかし上泉の生首は、口を開いて時々目が開き、動くように見えたという。
そこで義光は「首を煮ろ」と指示を出した。
命令を受けたのは最上軍の里見兄弟だったが、時々動くように見える首を恐る恐る大釜で煮たという。
しかし、それでも首が時々動くように見えたので、周囲の者たちは祟りではないかと恐ろしくなり、逃げ出したそうだ。
そこで義光は、修験者に頼んで上泉の首に7日間も護摩を焚かせた。
7日目でようやく上泉の首はにっこりと笑ったような表情になり、目は閉じられ「仏眼」の相となったという。
戦国の世では、常に身近なところに「死」が存在した。
「生と死」の境目が曖昧にならないためにも、このような呪術的な要素は必須だったのかもしれない。
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