目次
エピローグ
大坂冬の陣の後、徳川家康は大領を与える条件を示し、真田信繁を味方に引き入れようと画策した。
しかし、信繁はこれを拒絶。そして、ついに大坂夏の陣が勃発した。
豊臣方は、もはや籠城戦を望めない大坂城を出て、幕府軍に野戦を臨んだ。
信繁は「真田日本一の兵」と称賛される壮絶な戦い振りをみせ、その生涯を閉じた。
徳川対豊臣。最後の決戦・大坂夏の陣
大坂城二の丸・三の丸の破却、外堀の埋め立てなどを条件に、大坂冬の陣の和議が結ばれた。しかし幕府は、終戦後のどさくさに紛れて、本丸の堀を含め大坂城のほとんどの堀を埋め立ててしまった。これにより大坂城は、全くの裸城となってしまったのだ。
しかし、大坂城に集まった浪人たちは城を退去することなく、そこに留まっていた。信繁もその一人だった。家康からの誘いを断った以上、最早他に道はなかった。
そして、1615(慶長20)年3月、大坂城開城を求めてきた幕府に対し、豊臣がこれを拒絶したために大坂夏の陣が起きたのだ。
この時の兵力は、幕府軍15万5千人、豊臣勢5万5千人とされる。
絶望的な状況の中、起死回生の策に活路を求める
堀を埋められた大坂城では、籠城戦は不可能だった。信繁ら浪人衆は、冬の陣同様に宇治瀬田出激論を提案。さらに、それだけでは戦況の打開ができないとし、豊臣秀頼自らが主力を率いて京都へ進撃。場合によっては、朝廷・天皇を掌握し、幕府軍に動揺を与える作戦を進言した。
しかし、この作戦はまたも淀殿や大野治長らに退けられた。結局、豊臣方がとった作戦は、籠城をあきらめ押し寄せる幕府軍に全勢力であたるしかなかった。
最早、誰が見ても勝ち目のない戦いだった。その中で、あわよくば大御所家康か、将軍秀忠を討ち取るという起死回生の策に賭けるしかなかったのである。
豊臣方が主だった武将を失った道明寺・誉田の戦い
5月6日、家康が京都を出陣したとの報を受け、信繁は後藤基次隊、毛利勝永隊とともに道明寺・誉田の戦いに臨んだ。
しかし、信繁率いる真田隊が戦場に到着する前に後藤隊は壊滅し、基次は孤軍奮闘の末、討死してしまった。濃霧のため真田隊の到着が遅れたのが原因だった。
信繁は勝永に基次討死の責任を詫びたうえで、この場での討死を告げたが「今は死すべき時ではない」と諭され、大坂城への撤退を開始した。
信繁は、殿(しんがり)を務めつつ、追撃してきた幕府側の伊達隊を銃撃戦で撃退した。
この時、信繁は「関東勢百万も候へ、男は一人もなく候」と大声一喝して引き上げていったという逸話が残っている。
しかし、この戦いで豊臣方は後藤基次、薄田兼相など多くの武将を失った。
さらに、同日に行われた八尾方面の戦いでは、秀頼の乳母子であり、大坂冬の陣では信繁とともに真田丸で戦った木村重成も討ち死にした。
豊臣方は、いよいよ大坂城へと追い詰められていった。
天王寺口・岡山の戦いで家康を自害直前まで追い詰める
翌5月7日、豊臣方は最後の決戦を幕府軍に挑むため、四天王寺・茶臼山付近に布陣した。これが天王寺口・岡山の戦いである。
信繁らがとった作戦は、総勢1万4500人の右翼・大谷吉胤隊、中央・真田信繁隊、左翼・毛利勝永隊が陣形を維持しつつ、7万人を超える幕府軍を最大限に引き付け、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させる。
そこに、明石全登が率いる300人の遊撃隊が急襲する作戦で、狙いは家康の首一つという、まさに起死回生の策だった。
激しい銃撃を繰り返しながら、圧倒的な数で襲い掛かる幕府軍。信繁は、かねての打ち合わせ通り、全ての兵たちを地に伏せさせ、銃撃に耐えた。
しかし、左翼に攻撃が集中すると、毛利隊が耐え切れずに幕府軍と戦端を開いてしまった。信繁が描いた一斉攻撃により、幕府軍を分断混乱させる作戦は頓挫したのだ。
これをみた信繁は、秀頼の出馬を仰ぐため子の大助を大坂城に走らせた。そのうえで、赤備えの真田隊の先頭に立ち、真一文字に家康本隊めがけて突撃を敢行した。
真田隊は、正面の松平隊1万5000人の大軍に激突した。この時「紀州殿、裏切り申され候!」という虚報が戦場に流れた。これは、信繁の計略だった。
混乱に乗じて松平隊を蹴散らすと、さらに奥深く進撃し、次々と前面の徳川方部隊を突破し、ついに家康本陣に突入した。その勢いは凄まじく、3度目の突入で家康旗本衆は離散し、馬印も倒された。
家康は後方に三里も逃走。その間、何度も自害を覚悟したといわれる。
しかし、突撃戦により消耗した信繁と真田軍は、圧倒的な数で勝る幕府軍に次第に押されていった。
真田信繁、壮絶な激闘の末49歳の生涯を閉じる
ほとんどの部下を失った信繁は一人、傷ついた身体を安居神社境内の大木の根元に休ませていた。
そこに松平勢の西尾仁左衛門が襲いかかった。信繁にはもう闘う体力は残っていなかった。
こうして信繁は、波乱に満ちた49歳の生涯を閉じたのである。
その日のうちに大坂城は落城した。
山里曲輪に逃れていた淀殿・秀頼母子は、大坂城へ退却した毛利勝永の介錯により自刃。
勝永、大野治長、真田大助らもその後を追い、ここに豊臣氏は滅亡した。
まとめにかえて・後世に信繁の武名轟く
大坂夏の陣における真田信繁の戦い振りについては、多くの武将たちが賞賛を送っている。
細川忠興は「古今これになき大手柄」。島津家では「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申す事に候」。公家の山科言継までも「天王寺にて度々さなた武辺」と語った。
信繁は大坂夏の陣で敗れた。しかし、真田の宿敵である家康との勝負には勝ったというべきだろう。
とてつもなく巨大な存在の家康を自害直前まで追い込んだことに、同じ時代に生きた武将たちは、惜しみない称賛を贈ったのだ。まさに、堂々たる男の生き様であった。
※参考文献
高野晃彰編・真田六文銭巡礼の会著『真田幸村歴史トラベル 英傑三代ゆかりの地をめぐる』メイツユニバーサルコンテンツ、2015年12月
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