安土桃山時代

豊臣最後の名将・毛利勝永【真田とともに家康を自害寸前まで追い詰めた猛将】

毛利勝永とは

毛利勝永とは

「大坂夏の陣図屏風」

毛利勝永(もうりかつなが)は大坂の陣で「大坂五人衆」の一人として特に「大坂夏の陣」で大活躍した武将である。

大坂の陣と言えば真田信繁(真田幸村)が有名だが、毛利勝永はそれに劣らぬ活躍をして豊臣秀頼の介錯を行い、豊臣家の最期を見届けた武将である。

数奇な運命の中で最後まで豊臣家に忠義を尽くし「天下の兵(家康軍)総崩れせしは、ひとえに真田毛利両氏が功ならずや」と言われるほどの大活躍をしたが、なぜかあまり有名ではない武将・毛利勝永について追っていく。

優秀な父

毛利勝永(もうりかつなが)は天正6年(1578年)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣・森吉成の子として、尾張国(現在の愛知県)または近江国長浜(現在の滋賀県長浜市)で生まれる。(※森可成とは別人

父・森吉成は、秀吉に仕える近臣の黄母衣衆という精鋭部隊に属していた武将であった。

天正10年(1580年)6月2日、本能寺の変が起きた情報を、秀吉はいち早く手に入れる。
軍師の黒田官兵衛は「天下取りの好機」と秀吉に進言した。

この時、秀吉は備中高松城を水攻めにして毛利軍と対峙していたのだが、主君・織田信長の仇を取るために毛利輝元と和睦をして中国大返しを決行する。

天正15年(1587年)秀吉の九州平定で武功を挙げた森吉成は、秀吉から豊前の二郡(規矩郡・田川郡)小倉城主6万石の大名となった。

この時期に、秀吉の指示によって、森(もり)姓から中国地方の毛利氏と同じ毛利(もり)と漢字を変えて改姓したとされている。

森吉成は毛利壱岐守と称し「毛利勝信」と改名。勝永も「毛利勝永」となり、6万石のうち豊前1万石を与えられた。

このような経緯で勝信、勝永親子は毛利姓を賜ったので、毛利本家との血縁関係はない

文禄元年(1592年)の文禄の役では父と共に2,000人の軍役を命じられて出兵して、父は四番隊長として島津義弘ら南九州軍勢の統率を任せられた。
慶長2年(1597年)の慶長の役では蔚山(ウルサン)城で戦う加藤清正を救援するという武功を挙げている。

これによって19歳の若武者、毛利勝永の名は全国的に知られることになる。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、豊臣恩顧の大名ということもあり石田三成らの西軍につく。

父・勝信は領国の九州におり、勝永が軍勢を指揮して伏見城の戦いで戦功を挙げたために、毛利輝元と宇喜多秀家により3,000石を加増されている。

関ヶ原の戦いの本戦では、勝永は毛利輝元の家臣団と共に安国寺恵瓊の指揮下に置かれる。

毛利勝永とは

関ヶ原布陣図(慶長5年9月15日午前8時前)wiki(c)を元に作成

しかし先陣の吉川広家が東軍と結んでいたために毛利軍・安国寺軍共に動けず、何もしないうちに西軍は敗れてしまった。

父・勝信はというと居城の小倉城を黒田如水(黒田官兵衛)に奪われてしまい、勝信、勝永の毛利家は戦後に改易となった。

勝信はかつて徳川家康が伏見城を普請した時に、木材不足で困っていたのを助けている。
その時の恩義を家康が忘れなかったために、勝信、勝永親子の命は助かったという。

父・勝信の人柄が親子の命を助け、勝永は加藤清正の預かりとなり、後に土佐の山内一豊に預けられた。

山内一豊と勝信は旧知の仲だったために、勝永たちはなんと1,000石の領地を与えられるなどの手厚い保護を受けて過ごした。

大坂城入り

毛利勝永とは

豊臣秀頼

幕府の二代将軍に徳川秀忠が就任すると、淀殿は豊臣秀頼を右大臣にさせた。

徳川家と豊臣家の対立が深まると慶長19年(1614年)10月、秀頼は豊臣恩顧の大名や武将、浪人を集めだした。

父・勝信は慶長16年(1611年)に死去していたが、37歳となった勝永のもとにも豊臣方の使者が密かに訪れて、大坂城への入城を要請された。

勝永は「自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のためにこの一命を捧げたい」と大坂城へ駆け付けたいと考えた。
しかし、自分が大坂方につけば、土佐に残った妻たちの命はないと思い悩む。
すると妻が「君の御ために働くのは我が家の名誉、残る者の心配をするなら私たちは一命を絶つ」と勝永に告げた。

これで覚悟を決めた勝永は、どのようにして大坂城入りをすればいいのかと思案を巡らす。
この時には山内一豊が亡くなり、養子の山内忠義が山内家を継いでいた。

勝永は忠義と個人的に親しい関係だったために、土佐の留守居役・山内康豊に「徳川方の忠義の陣に加えて欲しい」と願い出た。
大坂方につかない証として長男・勝家を留守居役にして、次男・鶴千代を山内家の人質にすると康豊に約束する。

その言葉を信用した康豊は大坂行きを許した。しかし勝永は約束を破り、長男・勝家と共に船で逃げ大坂城に入ってしまった。
これを聞いた忠義は激怒して次男・鶴千代と妻と娘を高知城に軟禁させた。

見事に大坂城入りを果たした勝永は、豊臣家の譜代家臣ということで諸将の信頼を得て後藤又兵衛・真田信繁(幸村)・長宗我部盛親・明石全登と共に「大坂五人衆」の一人となり、大坂方の中心武将となる。

大坂の陣

大坂城に集まった軍勢は約10万。彼らの多くは関ヶ原の戦い後に改易となった浪人衆が多く、豊臣恩顧の大名クラスは大坂五人衆だけであった。

しかし豊臣方の意見が合わず、勝永らが出した策は採用されずに籠城戦と決まった。

慶長19年11月19日、大坂冬の陣が始まり、家康ら徳川方は約20万の軍勢で大坂城を包囲。
真田丸に陣取った真田信繁(幸村)が徳川軍を圧倒するなど、大坂方も奮戦する。

戦局が膠着状態となると家康は大坂城に大砲攻撃を始め、侍女8人が砲撃によって死んだことなどから両者は和睦となった。
勝永は冬の陣ではほとんど出番がなく目立つ活躍はなかった。

その後、和睦の条件を無視して徳川方は大坂城の堀をほとんど埋めてしまい、大坂城は丸裸にされてしまう。
そのために慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣では、大坂方は城の外に軍を出して戦う以外に選択肢がなくなってしまった。

そこで逆転勝利をするには敵の総大将・徳川家康を討ち取るしかないと大坂方は作戦を練った。

敵は約15万で大坂方は約5万。圧倒的な兵力差と堀を埋められた勝永たちは、敵を狭い丘陵地に誘い込んで攻撃をして敵を引きずり出し、そこで手薄になった所に、別動隊が家康の本陣を攻撃するという作戦を立てた。

『大坂軍記之内』(1883), 後藤又兵衛 真田幸村 wiki public domain

5月6日、道明寺の戦いで先発した後藤又兵衛の軍の後を追ったが、霧のために勝永軍と真田軍の進軍が遅れ、後藤又兵衛の軍は8時間近く孤軍となり、又兵衛は討ち取れられてしまう。

毛利勝永とは

道明寺の戦い・午前 拡大 wiki(c)Blowback 

真田信繁(幸村)は「濃霧のためにみすみす又兵衛らを死なせてしまった、豊臣家の御運もこれまでか」と泣いたという。

すると勝永は「ここで死んでも益はなし、秀頼公の馬前で華々しく散りましょう」と励まして大坂城に撤退した。

5月7日、家康の陣に突撃する作戦を実行に移し、勝永は8,000の兵を率いて出陣した。(天王寺口の戦い

勝永軍は徳川方の先鋒・本多忠朝軍とすぐに銃撃戦となる。

勝永軍は敵を圧倒し、早々に本多忠朝を討ち取ることに成功する。
さらに救援に来た小笠原忠脩も討ち取り、敵に大きな打撃を与えた。

次に勝永は家康を守る場所に布陣していた、榊原・酒井・浅野・秋田・仙石・諏訪・松下・本多・安藤・六郷といった名だたる諸大名の軍勢を打ち破り、家康の本陣への防御網を切り裂いた。

この時、勝永が打ち破った軍勢は3万ともいわれ、勝永の強さに徳川方は驚愕したという。

その隙をついて真田信繁(幸村)の別動隊が家康の陣めがけて突撃する。

毛利勝永とは

真田幸村公騎馬像(上田駅前)wiki(c)yukisuke

3度の猛烈な突撃で家康の陣にあと一歩というところまで迫り、あの家康が自害を覚悟するところまで追い詰めた。
しかし、わずかに及ばず真田隊は壊滅し、信繁(幸村)も討ち取られてしまう。この突撃は後世に語り継がれる伝説となった。

真田隊壊滅の知らせを聞いた勝永は四方を敵に囲まれ「もはやこれまで」と大坂城への退却を始める。

そこに井伊直孝・細川忠興らが勝永に攻撃を仕掛けるが、勝永はそれをかわして大坂城へ帰還した。

毛利勝永の最期

5月8日、炎上する大坂城中で、勝永は主君・秀頼公の自害の介錯をした。

父の代から仕えてきた豊臣家の滅亡の瞬間を見届けてから、長男・勝家と勝永の弟と共に蘆田矢倉で自害した。享年37歳であった。

大坂夏の陣が終わると、家康は山内忠義に高知城に軟禁されている母子3名を京へ護送するように命じた。
10歳の鶴千代は斬首となったが、妻と娘は助命されて土佐に戻されたという。

こんなエピソードがある。

天王寺口の戦いを見ていた黒田長政加藤嘉明に「あの際立った采配は誰だろう」と尋ねると嘉明は「貴殿はご存知なかったのか、彼こそ毛利壱岐守が一子豊前守勝永でござる」と言った。

長政は「ついこの間までは幼く若い者と思っていたが、武略に練達した大将となったものよ」と感嘆したという。

長政が最後に勝永に会ったのは、関ヶ原の戦いの前であったという。

関ヶ原の戦いの後は山内家お預かりにあったにもかかわらず、歴戦の武将たちを次々と打ち破った勝永の強さに敵方の武将も驚愕したのである。

おわりに

毛利勝永は真田幸村の影に隠れてあまり有名ではないが、真田幸村が徳川家康にあと一歩まで迫ることが出来たのは、毛利勝永の活躍無しでは考えられない。

江戸時代中期の文人、神沢貞幹は

「惜しいかな、後世、真田を云て毛利を云わず」

と、幸村に比べ勝永の活躍があまり語り継がれないことを惜しいことだと記している。

二人には共通点が多く、父は豊臣秀吉の下で同じような石高(6万石と7万石)の大名だった。

関ヶ原の戦いでは共に西軍につき改易となり、世に隠れるような生活を送り、大坂の陣では再び戦場に戻り波乱万丈な生涯を終えている。

同じような運命をたどった二人だが、人気や有名度合いには格段の差が生じている。これは歴史の不思議である。

 

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