「舞台役者は親の死に目に会えないのが当然」などとよく言われますが、福来スズ子のモデル・笠置シヅ子も母親の最期を看取ることができませんでした。
血はつながっていなくても愛情深く育ててくれた両親とかわいい弟。シヅ子はいつも家族を思いやり、誰よりも母に義理と恩を感じていたといいます。
今回はシヅ子と母・うめの絆を中心に亀井家のエピソードをご紹介します。
最愛の母、亀井うめの最期
昭和14年(1939年)7月公演の『グリーンシャドウ』で笠置シヅ子(当時は笠置シズ子)が歌った「ラッパと娘」は評論家から大絶賛。「スイングの女王」目当ての観客も増え、シヅ子の仕事は波に乗っていました。
9月、帝国劇場での公演『秋のプレリュード』に出演しているシヅ子のもとに、「ハハ キトク」の電報が届きます。
慈しみ育ててくれた母親が、はかなくなろうとしている。一刻も早く母に会いたいと居ても立ってもいられないシヅ子でしたが、運悪く出演者の一人が入院していて代役が立てられません。
「自分の歌を楽しみにしているお客さんのためにも舞台に穴を開けてはいけない」そう思い直したシヅ子は母への気持ちを押し殺し、いつもと変わらぬ笑顔で気丈に歌い続けました。
最愛の母が亡くなったのは、昭和14年(1939年)9月14日のことでした。病と闘いながら、最後までシヅ子のことを気にかけていたうめは、大きな役をもらったシヅ子が公演中で帰れないと聞くと、満足そうな笑みを浮かべて静かに息を引き取ったといいます。
結局シヅ子が大阪に戻ったのは、母の四十九日の法要でした。
一家の大黒柱として働く笠置シヅ子
昭和10年(1935年)芸名を「三笠静子」から「笠置シズ子」に改めた頃、シヅ子は大阪松竹少女歌劇団から80円の月給をもらっていました。当時の女性事務員の月給は約30円。20歳にして女学校卒の職業婦人よりも稼いでいたシヅ子でしたが、自由に使えるお金はほとんどありませんでした。
この頃、父親の音吉が銭湯を廃業し、天王寺に理髪店を開業。シヅ子の弟・八郎と一緒に店を切り盛りしていましたが、経営は芳しくありませんでした。
追い打ちをかけるように体調を崩したうめの病院代が家計を圧迫するようになり、亀井家の家計はシヅ子の肩に重くのしかかってきます。
シヅ子は一家の大黒柱として、給料の大半を家に入れていました。化粧もせず、歌劇団の女優とは思えないほど服装も地味だったため、出待ちをしているファンに全く気付かれなかったといいます。
弟・亀井八郎の出征
昭和12年(1937年)7月に勃発した日中戦争の影響で世間の景気が少し上向きになり、これで理髪店も軌道に乗るはずと思っていた亀井家でしたが、年が明けると八郎に召集令状が届きます。
香川県丸亀市の陸軍第十一師団に配属になった八郎は、出発前シヅ子に「自分の代わりに家のことを頼む」と言い残して出て行きました。
うめが産んだ子どものうち、育ちあがったのは八郎だけです。唯一無事に育ってくれた八郎を、うめと音吉はどんな気持ちで送り出したのでしょう。大事な一人息子の出征に気を落とした音吉は、理髪店を閉めてしまいました。
シヅ子の給料だけが頼りの両親のためにも、自分がもっと稼がなければ思っていたところに松竹楽劇団への移籍話が持ち上がります。
給料は200円、松竹少女歌劇団からは970円の退職金も出るという話にシヅ子は飛びつきました。弟が戦地から帰って来た時に、商売を始める元手に退職金を使ってもらおうと考えたのです。
体調が優れない母を残して行く心配はありましたが、シヅ子は上京する意思を固めました。『ブギウギ』六郎の出征、ツヤとの別れ。
シヅ子の上京~育ての親の恩に報いたい
東京行きの前日、うめはシヅ子を鰻屋へと誘いました。
「自分や家のことは心配せず、精一杯仕事に打ち込みなさい」と言いながら、うめは鰻をペロリと平らげます。
実はこの時、食事も取れないほど、うめの病状は悪くなっていました。いつも娘を思いやってきたうめは、シヅ子に心配をかけまいと無理をして鰻を平らげてみせたのでした。
昭和13年(1938年)4月、シヅ子は特急「つばめ」に乗って東京へ向かいます。見送りに来たうめの出立ちは、黒紋付の羽織でした。
黒紋付羽織は戦前の女性の正装です。死期を悟っていたうめは二度とシヅ子に会えないことを覚悟したのでしょう。大事な娘を嫁に出すような気持ちだったのかもしれません。うめの最後のけじめとしての黒紋付羽織でした。
世間での知名度も上がり松竹楽劇団の看板スターとなったシヅ子は、200円の月給のうち20円を下宿代、30円を自分の生活費に取り、残りの150円を実家へ仕送りしていました。
月に30円の生活費では、派手な生活はできません。同僚からの誘いも断り、ほとんど劇団の人々とはつき合いませんでした。
同僚がお茶を飲みに行ったり、ご飯を食べに行ったりしている間、ひとり稽古場で歌を歌っていたといいます。
大阪から出てきたシヅ子は東京に知り合いもなく、さらに付き合いも悪いため孤独な日々を送っていました。それでも育ててくれた親への義理を果たすため、仕送りを欠かしたことはありませんでした。
※笠置シヅ子と養父母の関係について詳しくはこちら。
『ブギウギ』花田鈴子は実の子じゃない!笠置シヅ子の出生の秘密とは
https://kusanomido.com/study/history/japan/shouwa/boogiewoogie/74649/
徴兵検査と召集令状
日本では太平洋戦争終結まで、徴兵検査が行われていました。役所が20歳以上の男子の名簿を軍に提出すると、軍によって身長、体重、病気の有無、適性などの検査が行われ、甲種から戊種までのランクが付けられます。
『ブギウギ』で六郎が言っていた「甲種合格」とは、健康で最も兵役に適していると判定された合格者のことで、即入営を意味しました。
徴兵検査でランク付けされた後は、戦況に応じて召集令状が送られてきます。召集令状いわゆる赤紙は半紙のような薄い紙で、陸軍と海軍がそれぞれ発行しました。
赤紙が届いたら従うしかなく、逃げ場がありません。そのため徴兵検査で不合格になろうと、醤油を一気飲みして心臓病だと偽ったり、耳に生卵を入れて中耳炎を患ったりと、あの手この手で兵役逃れをする人が後を絶ちませんでした。
戦時下の日本にはたくさんの六郎がいました。ドラマの中で「ワイ、死にとうないわ。死にとうないわ」とおびえていた六郎。この言葉こそ、当時出征していった人たちの心情そのものなのかもしれません。
参考文献:青山誠『笠置シヅ子 昭和に日本を彩った「ブギの女王」一代記』.KADOKAWA
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