エピローグ
男性を中心に語られることが多い日本の歴史。
しかし、日本には男性を上回る能力をもった女性がその時代の歴史を動かしたいう史実があります。彼女たちが歴史に果たした役割とはどのようなものだったのでしょうか。
今回は、「悪女・守銭奴」と罵られながらも、経済・政治・外交に卓越した手腕を発揮して、室町幕府を守った日野富子にスポットをあて、その真実を探ってみました。
6代将軍義教の暗殺と義政の将軍就任
室町幕府8代将軍足利義政の正妻・日野富子は、政治よりも趣味に傾倒する義政に代わり幕府の政治に参与しました。
その後継者争いに介入し、戦国時代の始まりとされる応仁の乱を引き起こした一人ともされます。
彼女が「悪女・守銭奴」と呼ばれ評判が悪いのは、京都の七つ口に関所を設け税金を徴収したり、高利貸しを行ったりして巨額の財をなし、私利私欲に走ったとされることが理由とされますが、果たしてそれは事実であったのでしょうか。
富子は1440(永享12)年、足利将軍家と姻戚関係を持つ公家の日野家に生まれ、1455(康正元)年、16歳で義政に嫁ぎました。
その当時の室町幕府の状況は、義政の父である6代将軍・義教の治世に触れておく必要があります。
義教は天台座主として僧籍にありましたが、兄の義持の死によって還俗し、将軍の座に就いた人物。強権的な手法で、守護大名に対して厳しくのぞみ、一色氏・土岐氏などの一族を滅亡させています。それが原因になり、嘉吉の変により赤松氏によって暗殺されてしまいました。
義教の後は、わずか10歳の長男義勝が継ぎますが早世してしまいます。そこで二男で8歳の義政が将軍候補となり、管領畠山持国に推されて14歳で8代将軍に就任しました。
将軍の正妻から室町幕府の中心へ
富子が義政の正室になった頃、青年将軍義政の周囲はその近臣達が取り巻いており、彼らが盛んに政治に介入していました。
世間はこの状況を「今の政治は御今、有馬、烏丸の三魔が行っている」と非難したといいます。御今とは義政の乳母の今参局(いままいりのつぼね)、有馬は近習の有馬持家、烏丸とは義政の養育を行った公家の烏丸資任(からすまるすけとう)のことです。
そんな中、富子と義政との間に待望の男子が誕生しますが、その子が生後間もなく亡くなると事件が起こります。
亡くなった男子が今参局の呪詛により殺されたとの噂が広がったのです。
罪を問われ、琵琶湖の沖ノ島に流罪となった今参局は、配流の途中で自害に追い込まれます。この事件は富子が、殺害を指示したといわれ、富子悪女説の要因の一つになっていました。
しかし事件の真実は、義政の側室・近臣ら一部の者が政治に深く関与することにより、幕政に支障をきたすことを危惧した義政の母・日野重子の処置であったのです。
義政は富子との結婚前から複数の女性達に囲まれた後宮サロンを作っており、その女性達が政治に介入することを許していました。この事件で、4人の側室が追放されています。
だが、懲りない義政は、これ以降も近臣を優遇し、室町幕府の政権体制である管領や守護大名との連合とは、一線を画した政治体制を固めようとしました。
また、この頃に室町時代最大の飢饉である寛正の大飢饉が起こります。京都だけでも死者は8万人以上に上り、市内を流れる賀茂川は餓死者の死体で埋まりました。
この惨状の中、義政は飢饉対策を行うどころか、莫大な費用をかけて室町殿の再建を画策。後花園天皇が義政を諌めたため、義政は工事は中断しますが、かわりに高倉御所の庭園建築を行っています。
この頃から義政には世間の実情に目を背ける弱さをみせるようになりました。
こうした義政に対して、富子は徐々に幕政に関わりを深めてきます。
そして、寛正の大飢饉が終わりを告げた1464(寛正5)年、糺河原(ただすがわら)で大規模な猿楽興行が行われます。
そこで、皇族・公家・守護大名・寺社と様々な階層の人々が見たのは、将軍義政と対等な立場を誇示する富子の姿でした。
この興行は前年に亡くなった重子に代わり、富子が将軍家家政を統括する立場にあることを示すセレモニーでもあったのです。
富子の行った経済活動が幕府を救った
この年の後半、早くも応仁の乱の芽が生じます。ことの発端は管領畠山氏の継承問題でした。この継承問題に細川氏が介入し、さらに斯波氏でも家督争いが生じます。
こうした三管領の揉め事と同時に、足利将軍家でも家督をめぐる難しい問題が持ち上がりました。
長男の死後、長らく富子に男子ができなかった義政は将軍を引退して、茶・作庭・猿楽などの趣味の世界に生きることを夢見るようになります。
そこで、弟の義視(よしみ)に将軍職を譲ることを思い立ったのです。義視はこの申し出を断りますが、義政が起請文まで立てたのでついに意を決しました。
しかし、皮肉なことに1465(寛正6)年に、富子が後の義尚(よしひさ)となる男児を出産します。
富子は幕府の有力大名・山名宗全に義尚の後見を依頼しました。
こうして、「富子・義尚・宗全(西軍)」対 「義視・勝元(東軍)」という対決の構図ができ、この対立が応仁の乱に発展してしまうのです。
応仁の乱がはじまると、富子は政治・経済の表舞台に躍り出ます。我が子の義尚を後見する目的もあったでしょうが、なによりも義政や幕臣たちのやる気のなさに業を煮やしたからでした。
富子としては「ここで私がやらなければ、一体誰が室町幕府を守るんだ」という気概があったのしょう。
関所から関銭を徴収し、米相場に介入し、高利貸しを行い、賄賂を受け取るなど、後に富子を「守銭奴」と呼ばせる経済活動に没頭します。
こうした経済活動は幕政の中心にいた富子にとっては当たり前のことだったのです。やらなければ幕府は弱体化してしまいます。
富子はその経済感覚の鋭さで、応仁の乱とその直後の難しい局面から室町幕府を救ったのです。そして幕府だけでなく、乱により経済破綻の危機にあった、天皇家・公家・寺社に対し積極的に経済的援助を行っています。
応仁の乱は、京都から収拾がつかないまま、その戦火は全国に広がってゆきます。そして、約10年続いてやっと収束を向かえた頃、義政は将軍職を義尚に譲りました。
その義尚が若くして亡くなると富子は、かつて敵対した義視の子・義材(よしたね)を第10代将軍に推し、室町幕府を存続させています。
日野富子は政治・経済・外交にその才覚を存分に振るい、室町幕府を支えたのです。
しかし、室町・安土桃山・江戸と時代が下るにつれ、武家が経済活動をすることを良しとしない考えである儒教「朱子学」の思想が武家社会を占めるようになります。
そうなると富子の行ったことは、卑しい者がすることと決めつけられ、ここから「悪女・守銭奴」のレッテルを貼られてしまいました。
富子の夫・義政の治世を境に室町幕府は衰退期に入っていきます。しかし、富子の頑張りによって、足利氏は将軍家としての存続を得ます。富子がその卓越した政治手腕により、その時代の歴史を動かしていたのです。
※参考文献
呉座勇一著 『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』中公新書
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