NHK朝ドラ『虎に翼』の主人公、猪爪寅子(いのつめともこ)のモデルは、日本初の女性弁護士の一人、三淵嘉子(みぶちよしこ)です。
三淵嘉子は、女性が冷遇されていた戦前に弁護士となり、戦後は女性初の判事および家庭裁判所長を務めた女性法律家の草分け的存在です。
彼女が法律の世界に足を踏み入れたきっかけは、何だったのでしょうか? 史実を元に紐解きます。
三淵嘉子の生い立ちと家族
三淵嘉子(旧姓武藤)は、第1次世界大戦が勃発した大正3年(1914年)11月13日生まれ。
両親は香川県丸亀市出身で、母・ノブは幼少の頃に父親を亡くし、裕福な伯父の養女となっています。ただし、養女とは名ばかりの女中のような扱いで、特に養母からは辛く当たられることが多く、ノブにとって伯父の家は居心地の悪い場所だったようです。
一方父親の貞雄は、代々、丸亀藩の御側医を務めた家柄で、次男だった貞雄は武藤家の養子になりました。
武藤家の人々は医師になることを望んでいましたが、貞雄は旧制丸亀中から一高を経て、東京帝国大学法科大学政治科へと進学。卒業後は台湾銀行に就職し、ノブと結婚しました。
結婚後、貞雄はシンガポール支店へ妻・ノブとともに赴任し、そこで女児を授かります。子どもはシンガポールの漢字表記「新嘉坡」から一字を取って、嘉子と名付けられました。
嘉子が2歳の時、父親はニューヨーク支店へ転勤となり、嘉子の弟・一郎を出産して間もない母と嘉子、一郎の三人は丸亀へと戻りました。
大正9年(1920年)、貞雄が東京支店の支配人となり、アメリカから帰国。一家は東京で暮らし始めます。
当初、渋谷に住んでしましたが、昭和4年(1929年)に麻布区笄町へと移り、敷地約150坪、かつては武家屋敷だったという立派な門のある一軒家に落ち着きました。
嘉子を筆頭に、一郎、輝彦、晟造、泰夫の5人の子どもに恵まれ、武藤家は7人家族となります。
嘉子は頭の回転が早く、口も達者で、兄弟の中で飛び抜けて優秀でした。
そんな娘を見るにつけ、両親は「この子が男の子だったら、どれだけいいか」と漏らしていたそうです。
家族以外にも、武藤家には書生が同居していました。故郷の丸亀から上京した学生が、入れ代わり立ち代わり、代々書生として受け入れられていたのです。
ドラマでも夜間の大学で勉学に励む書生・佐田優三が登場しています。
高等女学校時代の三淵嘉子
昭和2年(1927年)、嘉子は、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属高等学校)に入学します。
高等女学校とは、第2次世界大戦後の学制改革まで存続していた女子中等教育の学校です。現在の中学1年から高校1年~2年にあたり、主に良妻賢母の育成を目的としていました。
入学するためには厳しい試験を突破しなければならず、嘉子が受験したときの倍率は20倍。かなりの難関でした。「結婚こそ女の幸せ」と信じて疑わない母親のノブは、嘉子の女学校入学をとても喜んだそうです。
活発で明るく、人見知りしない嘉子は人好きのする性格で、いつも多くの友人に囲まれていました。とにかく正義感が強く、相手の意見が間違っていると思えば、自分の考えを理路整然と主張し、友人から「口喧嘩で彼女にかなう人はいない」と言われるほどでした。
その一方で、勝ち負けにこだわらないおおらかさも持ち合わせており、宝塚歌劇団の男役にあこがれる乙女でもありました。
また歌やダンスが得意で、ドラマの中でも『青い鳥』のチルチル役が好評だったといわれていましたが、史実でも彼女の熱演は好評を博し、一躍アイドル的な存在になったそうです。
演劇や絵画、小説と多彩な活動に打ち込んだ女学校生活は終わりを告げ、嘉子は成績優秀者として卒業式で総代を務めました。
法学の道を志し、明治大学専門部女子部へ進学
高等女学校卒業後の進学先には、教員養成機関である女子高等師範学校などがありましたが、当時こうした高等教育機関への進学率は1%に満たず、女学生のほとんどが結婚し主婦になる道を選びました。
卒業を控え、母親をはじめ周囲の誰もが結婚を考える中、自身の進路について悩み始めた嘉子に法学への道をつけたのは、父親の貞雄でした。海外勤務の経験もある貞雄は、女性も仕事を持って働くべきだという考えをもっていました。
「ただ普通のお嫁さんになる女にはなるな。男と同じように政治でも、経済でも理解できるようになれ。それには何か専門の仕事を持つための勉強をしなさい。医者になるか弁護士はどうだ」(引用:清永聡編著『三淵嘉子と家庭裁判所』)
父の言葉に背中を押された嘉子は、弁護士の道を選択します。ちなみに医者を選ばなかった理由は、血を見るのが怖かったからだそうです。
法律を学ぶ決意を固めた嘉子ですが、その道は険しいものでした。当時、司法試験を受験できるのは男性に限られており、法律家とは男性だけに許された世界でした。いくら勉強しても、女性が法律家になることは制度上不可能だったのです。
厳しい現実に落ち込む嘉子でしたが、いずれ女性弁護士への道が開かれるはずだという父親の励ましによって、彼女は大学進学を決意します。
当時、女子学生の入学を許可している大学がほとんどない中、唯一、法律を学びたい女性に門戸を開いていたのが明治大学の「専門部女子部」でした。
昭和4年(1929年)、明治大学は女性にも法曹界への道を開くべく「専門部女子部」を開校します。法科と商科から成り、3年間の修業後は明治大学法学部に編入が許され、女性が法律を学ぶことができる学校でした。
昭和7年(1932年)、「嫁に行けなくなる」という母親の嘆きと父親の励ましを胸に、嘉子は4期生として明治大学専門部女子部に入学。法律家への一歩を踏み出したのでした。
おわりに
女性法律家の先駆者・三淵嘉子が法曹界を目指したきっかけは、進歩的な考えを持ち、専門職に就くことを奨励した父親の影響によるものでした。
後年、「もし男に生まれたら、黒部ダムでも造ってみたかった」と語った嘉子自身、早くから社会に出て全力で何か仕事をしたいと考えており、父親がその背中を押す形になったようです。
ドラマ『虎に翼』で、寅子は今後どのように法律と向き合っていくのでしょうか。放送を楽しみにしたいと思います。
参考文献:清水聡『三淵嘉子と家庭裁判所』.日本評論社
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