1455年から1485年まで続いたイギリスの内乱は、王権を巡る激しい争いとして歴史に大きな影響を与えた。
この30年にわたる戦いは「薔薇戦争」と呼ばれ、後の時代に様々な文学や歴史の題材として用いられることとなる。
薔薇戦争の原因
15世紀後半、イングランドは決して平穏な国ではなかった。
フランスとの百年戦争に敗北し、さらには大陸の領土の一部を失ったことで人々は不満を募らせていた。
百年戦争の終結後、ランカスター朝最後のイングランド王ヘンリー6世は精神的な病に苦しみ、国政を執ることが困難となった。
実質的に国を動かしていたのは、彼の妃マーガレットであった。
しかし彼女は、イングランドの貴族の軍人ヨーク公リチャードと、激しい対立関係にあった。
ヨーク家はエドワード3世の息子エドマンドを祖とする家系であり、ランカスター家は同じくエドワード3世の息子ジョン・オブ・ゴーントを祖とするため、両家は血縁関係にあった。
ヨーク公リチャードは百年戦争で軍司令官として活躍し、有能な人物とされていたが野心家であり、自らの王位継承権を主張して王家と敵対することとなる。
薔薇戦争の勃発
1455年5月22日に発生した第1次セント・オールバーンズの戦いは、薔薇戦争の始まりを告げる重要な出来事であった。
この戦いは、ランカスター家 vs ヨーク家の最初の衝突である。
ヨーク公リチャードと彼の盟友であるウォリック伯は、自らの軍勢を率いて南下し、セント・オールバーンズでヘンリー6世の軍と対峙することとなった。ランカスター軍はサマセット公を指揮官とし町の防衛を固めていたが、やがて戦闘が勃発した。
ヨーク軍は最初の攻撃で大きな損害を受けたが、ウォリック伯の率いる部隊が町の裏道を通ってランカスター軍の側面を突くことに成功した。
この奇襲によりランカスター軍は混乱に陥り、サマセット公は戦闘中に戦死した。
その後、ヨーク公リチャードは1460年のノーサンプトンの戦いでヘンリー6世を捕らえることに成功したものの、同年のウェイクフィールドの戦いで戦死してしまった。
しかし、息子のエドワードがウォリック伯の支援を得て、1461年にロンドンへ入城し、エドワード4世として戴冠、ヨーク朝を開いた。
「ヨーク朝」の幕開けと「ランカスター朝」の反撃
こうしてエドワード4世が即位したものの、その政治は安定せず、妃であるエリザベスの親族ばかりを重用したために、貴族の反感を買った。
特にウォリック伯は、エドワード4世とフランス王の義妹ボナとの縁談を進めていたが、この計画が破綻したことで失望し、ランカスター側へと寝返った。
1469年、ウォリック伯はエドワード4世の弟クラレンス公ジョージと共に反乱を起こすが、翌年には国外へ亡命。
同じく国外に逃亡していたマーガレット王妃と手を組んでイングランドへ上陸し、一時期はエドワード4世を追い詰めることに成功し、ヘンリー6世が復位した。
しかし1471年、エドワード4世は反撃を開始し、バーネットの戦いでウォリック伯を打ち取り、テュークスベリーの戦いでマーガレット王妃を捕らえ、ランカスター家はほぼ壊滅状態となった。
ロンドン塔に幽閉されたヘンリー6世は、その後暗殺された。
リチャード3世とヨーク朝の終焉
エドワード4世の死後、その息子エドワード5世が後を継いだが、エドワード4世の弟グロスター公リチャードがこれに異を唱えた。
エドワード4世はエリザベスとの結婚以前に別の女性との結婚を行っていたため、リチャードはエドワード5世を庶子とし、王位継承権を否定したのだ。
そしてエドワード5世をロンドン塔に幽閉して殺害した後、自らがリチャード3世として即位した。
テューダー王朝の成立
こうして内紛はあったものの、薔薇戦争の最終的な勝者はヨーク家であるかに見えた。
しかし、ヘンリー・テューダーという貴族が、リチャード3世の即位に反発した。
ヘンリー・テューダーは、母親がランカスター家の血を引くボーフォート家の出身であることから、自身の王位継承権を主張し、リチャード3世に反対する貴族たちの支持を得たのだ。
そして1483年、リチャード3世の寵臣バッキンガム公が反乱を起こし、ヘンリー・テューダーの即位を掲げたが、失敗し処刑された。
1485年、ヘンリー・テューダーはフランス兵とウェールズ兵を動員し、ボズワースの戦いに挑んだ。この戦いは約2時間続き、結果としてヘンリー・テューダーはリチャード3世を打ち破り、ヘンリー7世として即位した。
数年後、ヨーク派を自称する残党との小規模な戦闘が発生したが、歴史上の流れとしてはボズワースの戦いで薔薇戦争に決着がついたとされる。
ヘンリー7世は翌年、エドワード4世の娘エリザベス・オブ・ヨークと結婚し、この婚姻は「ランカスター家とヨーク家の統合」を象徴し、それまでの対立についに終止符が打たれたのだ。
最後に
薔薇戦争の一因としては、当時のイングランド王権の弱さと、貴族の強い力が挙げられるだろう。
そのため、ヘンリー7世は絶対王政を確立させることに努め、以後のイングランドでは貴族が大きな権力を持つことはなくなった。
薔薇戦争は、ヨーク家が白薔薇、ランカスター家が赤薔薇を紋章としていたことから「薔薇戦争」と名付けられたが、この名称が一般に使われるようになったのは、百年後のシェイクスピアの創作によるところが大きい。
薔薇戦争は国内外に多大な影響を及ぼし、ランカスター家とヨーク家を統合させて誕生したテューダー王朝は、強い王権を持つ新たな時代を築き上げ、後の大国イングランドの基礎を形成したのだ。
参考文献 : 陶山昇平『薔薇戦争 イングランド絶対王政を生んだ骨肉の内乱』
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