安土桃山時代

「愛妻家なのに遊女を側室にして隠し子まで…」 藤堂高虎の妻たち

戦国時代の築城名人として、そして主君をたびたび変えた武将として知られる藤堂高虎

近江の武士から浅井・織田・豊臣・徳川と何度も主君を変えて出世し、一代で伊勢・伊賀の32万石の大名となった勇将である。
そんな彼は、愛妻家だったという話が残っている。

生涯持った妻は、側室を含めてたったの2人。秀吉の側室が少なくとも13人、家康の側室が20人いたという時代に、あまりにも少ない。

そんな高虎の妻は、どんな人物だったのだろうか。

正室は、一色義直の娘・久芳院

藤堂高虎の妻たち

画像:四天王寺(三重県津市栄町) wiki c 立花左近

高虎の最初の結婚は、彼が羽柴秀長の家来として戦いに明け暮れていた頃に行われた。

当時、高虎は兵庫県養父市の大屋という地域に屋敷を構えていた。この地域の有力者であったのが一色氏であり、一色氏は室町幕府の四職家の流れを汲む名門であった。

天正九年(1581年)、高虎は一色義直の娘である久芳夫人と結婚した。

久芳夫人の一族には、後に徳川家康の政治顧問として活躍した金地院崇伝がいる。高虎と親密な関係を築いた崇伝は、実は遠縁の親戚にあたるのだ。

久芳夫人とはどのような人物であったのだろうか。

彼女と高虎の間には子供が生まれなかったため、高虎は彼女の妹や姪を養子に迎え、各地の有力な武将と結婚させていた。

久芳夫人はたびたび高虎に側室を取るよう勧めたが、高虎は長い間それを拒んでいたという。
後に側室を迎えた際も、高虎はわざわざ久芳夫人に連絡して許可を得た。高虎が戦や築城で家を頻繁に空けていた間、久芳夫人は賢明に家を守り続けていたと伝えられている。

高虎は秀長の養子であった仙丸(丹羽長秀の三男、後の藤堂高吉)を養子に迎えた。この際の彼の養母も久芳夫人であった。

しかし、仙丸は成長するにつれて問題を起こし、高虎の手を焼かせた。高虎は当初、仙丸に家督を継がせるつもりであったが、後に側室との間に子供が生まれたことで、その話は立ち消えとなった。

藤堂高虎の妻たち

画像 : 久芳院墓所 by史跡探訪記

家康の死後、高虎が日光東照宮の建設に関わっている間に、久芳夫人は津城で亡くなった。

高虎は深く悲しみ、四天王寺に廟所を設けて彼女の肖像画を納めた。

今でもそのお墓は残されており、彼女の存在を偲ぶことができる。

継室は、長連久の娘・松寿院

関ヶ原の戦いが迫る慶長四年(1599年)、高虎は長連久の娘である松寿院と結婚した。側室である。

松寿院は、久芳夫人と同じく但馬出身であった。

松寿院は元々、秀吉の家来であった宮部継潤(けいじゅん)の妻であったが、継潤の死後、行き場を失い、一時は遊女にまで身を落としたという説もある。

しかし、そこから一転して高虎と再婚することとなった。なお、宮部継潤は九州征伐の際、根白坂の戦いで高虎と共に島津軍と戦った武将であり、継潤のピンチを高虎が救ったことがあった。

松寿院は高虎との間に、四人の子供をもうけた。

画像:藤堂高次 public domain

一人は高虎の後継として二代藩主となった高次であり、他には弟の高重(慶長八年に26歳で死去)と、女子二人がいる。

女子はそれぞれ、蒲生家と藤堂作兵衛家に嫁いだ。
高次が生まれたのは高虎が46歳の時であったため、松寿院は高虎よりかなり若かったと推測されている。

また、高虎は松寿院の妹を養女として迎え、秀長の重臣であった横浜一庵に嫁がせたこともある。

慶長十年(1605年)に徳川秀忠が二代将軍に就任すると、高虎は人質として松寿院と嫡男の高次を江戸に送った。

松寿院は高虎よりも長生きし、高虎の死後は息子の高次と共に過ごしたと考えられる。

高虎の墓のそばには松寿院の墓も建てられている。

まさかの隠し子が!?

画像:大坂城炎上 public domain

ここまでの話からすると、高虎は二人の妻を大切にした模範的な武将のように見える。

しかし、実は他の女性との間に子供をもうけていたという説がある。

この説によると。高虎は侍女であった武井忠兵衛の娘を懐妊させてしまったという。
この女性は重臣の石田清兵衛に預けられ、その後、男子の才助(三郎左衛門)を出産した。

石田才助は16歳で高虎に仕え、大坂の陣の後には千石の足軽大将となった。

江戸時代に入り、石田清兵衛家が断絶すると、石田三郎左衛門家がその地位を引き継ぐこととなった。

才助が本当に高虎の落胤であれば、高虎の血筋である才助が大切に扱われていたことを示している。

高虎は妻をどう思っていたのか

画像:藤堂高虎の墓(津市寒松院) wiki c IshizakiA

藤堂高虎は200もの遺訓を残しているが、その中にこんな文がある。

現代語訳を紹介しよう。

**第93条**
自分の妻に情けなくあたる者がいる。大いに道が違っている。男を頼みにして、共に乞食や非人になっても付き従うほどの深い間柄だ。それを知らずに、常に仲が悪く打ち解けないのは本意ではない。仲良くすべきだ。元々他人同士が寄り合って夫婦となるのは過去からの約束だ。そこそこにする人は、頼もしげがないと馬鹿にされる事が多い。

高虎は、妻を乞食になってもずっと一緒にいる存在であるからこそ、仲良くしなければならないと考えていた。

この遺訓は家来に言っていた事が元になっている。

参考文献:
江戸時代の設計者 異能の武将・藤堂高虎
藤堂高虎公と遺訓二百ヶ条
文 / 草の実堂編集部

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