1955年7月28日、三重県津市の中河原海岸で前代未聞の悲劇が起きた。
同海岸で泳いでいた女子中学生36名が、瞬く間に海にのまれて溺死してしまったのだ。
死亡した女子中学生たちは皆、毎年の恒例となっていた水泳訓練に参加していた生徒たちだった。当時はプールが備え付けられていない学校がほとんどで、公立校が海で水泳訓練を行うことは珍しいことではなかった。
この悲惨な水難事故は当時全国的に報道され、一部では「心霊現象説」まで囁かれた。その内容は、この事故が起きるちょうど10年前の1945年7月28日の空襲で亡くなった霊が、女生徒たちを海中に引きずり込んだというものだった。
事故当時の天気は快晴で、風も波も穏やかだった。この上なく海水浴に適していたはずの遠浅の中河原海岸で、なぜ多くの死亡者と負傷者を生む水難事故が起こってしまったのだろうか。
今回は、海の恐ろしさを日本中に知らしめた「橋北中学校水難事件」について解説したい。
橋北中学校水難事件の概要
その日、津市立橋北中学校の生徒たちは、毎年夏季に行われる水泳訓練に参加していた。
中河原海岸は、安濃川河口右岸から南方に広がる遠浅の海岸であり、毎年同校や近隣の他校による水泳訓練が行われていた。
橋北中学校の水泳訓練は、同年7月18日から事故が起きた28日にかけて行われ、初日から事故前日の27日までは、安濃川右岸から約300m南方を北限とする範囲が水泳場として区切られ、区域を南北2つに分けた状態で、男女別に訓練を受けていた。
女子が泳ぐ区域は、同校の校舎に近い北側であった。
水泳訓練最終日である7月28日は、授業の成果を確認するための能力テストが行われる予定だった。引率者である体育主任は補助係の3年生とともに先に中河原海岸に到着し、テストのために前日よりも水泳場の範囲を広げて設定した。
その日は潮の干満差が少ない日で、水泳場設定がされた午前10時ごろの時点で七部満ちの状態であり、天候は無風かつ快晴、海面には高い波もうねりもなく、絶好の海水浴日和といえる状態だった。
しかし、水泳場設定の補助を行った水泳部員の中には、前日とは異なる潮の流れが発生していることに気付いて、教師に報告した者もいた。
しかしあまり問題視はされず、能力テストは注意喚起を行った上で実行されることとなった。
やがて、男女合わせて約400名の生徒たちが、水泳訓練を受けるために中河原海岸に到着した。
女子グループも男子グループも、教師から入水時の注意や、水泳部員から報告があった潮の流れについての注意を受け、点呼と準備体操を行った後に、まずは水に慣れるために10分間海に入ることになった。
女子生徒たちは、扇形に散らばって海に入水した。
女子生徒約200名のうち大半が水泳を苦手としており、泳ぎにくい渚寄りの浅瀬を避ける生徒が多く、沖の境界線付近に人数が集中した。
しかし、生徒たちが海に入ってから5分もしないうちに、女子生徒の約半数とその付近にいた女性教師が、一斉に体の自由を失って溺れてしまったのだ。
溺れて助けを求める女子生徒の声を聞き、水泳訓練に同行していた教師や校長、水泳部員及び周囲にいた海水浴客が、懸命に救助にあたった。
そして海から引き揚げられた女子生徒に対して、駆け付けた医師や看護師による必死の救命活動が行われたが、残念ながら36名の女子生徒が帰らぬ人となってしまったのである。
女子生徒たちが溺れた原因
この橋北中学校の水難事故は、水泳訓練を計画した学校や教育委員会側の責任を追及するために事件化された。
中河原海岸では綿密な現場検証が行われ、同校校長、教頭、体育主任が業務上過失致死で起訴された。
学校側の関係者は刑事事件において控訴審無罪確定、津市に対しては民事において損害賠償裁判が行われた。
そして、現場検証の結果や判例における証言、証拠により、この水難事故の原因は主に以下とされた。
1つは、当日、水泳場内にいつもとは異なる潮の流れが発生していたことである。(裁判では「異常流」と呼称された)
控訴審では、この前日までとは真逆の方向に流れていた「異常流」が、女子生徒たちを北側に押し流したために、事故が起きたと判断された。
2つ目の要因とされたのが「急激な水位の上昇」だ。
生き残った女生徒たちや救助に当たった関係者たちの証言により、当時生徒たちが入水した後、2~3分後に突如発生した大きなうねりが女子水泳場あたりに押し寄せ、約1mだった水深が50cmほど上昇した可能性があり、泳ぎの苦手な女子生徒たちがうろたえて体の自由を失い、沖に流された結果、溺れたものと考えられた。
これらの事象が起きた、さらなる原因としては、
・7月25~26日に発生した台風によって生まれた沿岸流説
・成因不明の短周期の潮位変化である副振動説
・潮の流線が収斂して発生した噴流の接岸説
・津海岸を航行していた大型貨物船による蹴波説
などが浮かび上がったが、断定できる材料が少なく、「異常流」と「水位上昇」が起きた原因の特定はできなかった。
心霊現象説の真相とは
この水難事故は、具体的な原因が明らかにされなかったため、事故発生後しばらくしてから「太平洋戦争中の空襲で命を落とした女性たちの霊が、引き起こしたものではないか」という都市伝説が囁かれ始めた。
この不気味な噂が日本全国に広がる直接的な原因となったのは、事故発生から8年後の1963年7月22日に出版された週刊誌に掲載されたある記事だ。
その記事の内容は、橋北中学校水難事件の生還者となった女子生徒による『事故当時の恐ろしい体験談を記した手記』だった。
手記によれば、その女生徒は水泳訓練中、「沖の方で、友人たちが次々と波間に吸い込まれる様子を目の当たりにした」という。
異常な事態に呆然としていると「そのうち黒い塊が自分の方に近付いてきた。よく見るとそれは防空頭巾をかぶりモンペをはいた、数十人の女の姿だった。」「急いで逃げなければと思うも、その黒い塊に足を掴まれてしまい、溺れてしまった」という。
この都市伝説は全国的に有名になり、テレビでは再現ドラマが放映され、マンガや映画の題材としても用いられた。
事件現場の中河原海岸は心霊スポットとして知られるようになり、亡くなった女子生徒たちのために建てられた「海の守りの女神像」が涙を流すという噂まで、まことしやかに囁かれるようになったのである。
しかし、記事掲載から54年が経過した2017年9月16日、手記を書いたとされる女性がテレビ番組のインタビューで、自身は実際には手記など書いておらず、週刊誌に掲載された手記は、記者の質問に答えた内容が勝手に編集されたものであることを明らかにした。
その元女子生徒は「溺れた同級生を助けようとしたら引きずり込まれて、自分も深みにはまってしまった。足を引っ張られたかどうかという質問に対しては、一緒に溺れた人が引っ張ったのかな?と答えたが、それが亡霊に引っ張られたという内容で掲載されてしまった」と答えていたのだ。
この証言により、長年に渡って語り継がれていた中河原海岸の恐ろしい都市伝説が、マスコミによって捏造された作り話であったことが判明したのである。
事件後の中河原海岸
事故発生日から4日後の8月1日、橋北中学校では学校祭が行われ、6日には亡くなった女子生徒たちの冥福を祈るために「灯篭流し」が、伊勢湾に注ぐ岩田川で行われた。
現在の中河原海岸では遊泳が推奨されておらず、多くの人間の命を奪ったとは思えないような穏やかな海原と景色が広がっている。
亡くなった女子生徒たちの供養のために建立された「海の守りの女神像」には、今でも花や供え物が手向けられ、鎮魂の祈りが捧げられている。
しかし、このような大きな水難事故の記憶や記録が消えなくとも、毎年夏が来る度に、レジャー中の水難事故は全国各地で起きてしまっている。
過酷な暑さをしのぐには打ってつけの海水浴や川遊びだが、水の中で呼吸ができない人間は、思わぬ形で海や川に命を奪われることもある。
油断や慢心が取り返しのつかない事故に直結することを、決して忘れてはならないであろう。
参考文献
後藤 宏行 (著)『死の海』
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地元三重県です。40年程前に中学校の先生や親に聞いた話ですが、生還した生徒五人位は、防空頭巾ともんぺ姿の人に足を掴まれ水中に引きずりこまれた。と証言していたそうです。現在は遊泳禁止になってますが、事故後、遊泳禁止になるまでは、7月28日には必ず死亡事故が発生していたみたいです。色々、原因を科学的に分析して理由付けを模索しますが、今有る世界とは、別世界も有ると思います。だったら何故神社仏閣に参拝行くのか? 先人、亡き人達に敬 意と哀悼の心を持つ事が大切と思います。
手品の種を明かしても仕方がないね。
みんなこうしたエンタメを求めてるんだから。