犯罪事件史

【600人のDV男を葬った化粧水】17世紀イタリア女性たちの救いの毒薬「アクア・トファーナ」

画像 : 毒薬を盛る女性のイメージ イーヴリン・ド・モーガン作『The Love Potion』 public domain

17世紀のイタリアに、男性の支配やDVに苦しむ女性たちを、毒薬で密かに救った女性がいた。

彼女の名は、ジュリア・トファーナ(Giulia Tofana)である。

ジュリアは「アクア・トファーナ」という毒薬を調合し、化粧用ボトルに入れて販売していた。
この毒薬は、1633年から1651年までの約18年間買われ続け、600人以上の男性たちが毒殺されたという。

ジュリアは、暴力的な男性にとっては恐怖の存在であったが、抑圧から解放された女性たちには「救世主」と称賛された。

母の公開処刑をきっかけに毒薬師になったジュリア

画像 : ジュリアが生まれたシチリア島・パレルモの街 cc Tango7174

ジュリア・トファーナは、1620年にイタリアのシチリア島パレルモで生まれた。

彼女の幼少期についてはほとんど記録が残っていないが、13歳の時に大きな転機が訪れる。
母親で薬剤師だったテオファニア・ディ・アダモが、暴力的な夫フランシスを毒殺したのである。

テオファニアは日々の家庭内暴力に耐えかね、ついにその怒りと憎しみを爆発させたのだった。

殺人罪で告発された彼女は、拷問を受けた後に街中を引き回され、1633年7月12日に公開処刑された。

テオファニアは、スペインの王フィリップ4世の称賛を受けるほど美しい娼婦としても知られ、その悲劇的な死は娘ジュリアに深刻な影響をもたらした。

両親を失ったジュリアは、母から受け継いだ薬剤師としての技術を元に、薬の調合に没頭する。
母の教えや薬剤師の友人たちとの交流を通じて、さまざまな薬の調合を習得し、次第に毒薬の製造にも精通するようになっていった。

そしてついに、無色透明で無味無臭の毒薬「アクア・トファーナ」を開発するに至ったのである。

封建的な社会に苦しめられた17世紀のイタリア女性たち

1630年代のイタリアでは、多くの女性が、権威的な男性の所有物のように扱われていた。
結婚して夫が人間扱いしてくれることを期待するか、性労働をするか、未亡人になるか、物乞いをするか、修道院に入るかのいずれかであった。

夫が妻を支配することは社会的にも容認され、家庭内暴力や性的虐待に対する罰則や機関もほとんどなかった。
貴族階級の女性ですら、政略結婚の道具として扱われ、個人の尊厳は無視されていた。

しかし、家系を維持するために子どもを産むことは義務とされ、彼女たちは逃げ場のない苦悩の中で生きていたのだ。

唯一の安息は、「未亡人になること」であった。

ジュリアは、母親が夫の暴力に苦しんだ末に公開処刑されたことで、社会的に弱い立場に置かれた女性たちに共感を抱き、救いたいと強く思うようになったのである。

化粧品に偽装して販売した毒薬「アクア・トファーナ」

画像 : 毒薬「アクア・トファーナ」の化粧ボトル public domain

ジュリアは、女性たちに「未亡人になる道」を提供するため、毒薬「アクア・トファーナ」を商品化した。

その目的は、女性たちが支配的な男や暴力から自由になることだった。

毒薬は、ヒ素、鉛、ベラドンナなどを混合して調合された。
ベラドンナは瞳孔を魅力的に拡張させる効果があり、当時のイタリア女性は美容目的で使用していたという。

ヒ素や鉛も、肌を明るくする化粧品として一般的に使用されていたため、ジュリアは「アクア・トファーナ」を安全な商品として市場に流通させることができると考えたのである。

この毒薬は、女性が部屋の化粧台に置いても不自然ではない化粧用ボトルに入れられ、ラベルには女性の守護聖人・聖ニコラスが描かれていた。

ジュリアは合法的な化粧品ビジネスも運営し、実際に美容効果のあるフェイスクリームやパウダーも販売するようになった。

そして、多くの女性たちが、暴力的な夫や父親から逃れるために、こぞって「アクア・トファーナ」を購入したのだった。

自然死に偽装するための演技指導

画像 : 「アクア・フィアーナ」についてレクチャーするジュリアと未亡人になりたい女性たち イメージ 草の実堂作成

ジュリアの毒薬のもうひとつの特徴は、その巧妙な効果であった。

「アクア・トファーナ」は遅効性で、服用すると進行性の病気のような症状を引き起こし、最終的には自然死に至ったように見えるため、疑われることはなかったのである。

男性の支配に苦しむ女性たちは、夫や父親のスープやワインに「アクア・トファーナ」を1滴ずつ、期間を空けて混入させた。

1滴目では疲労感、2滴目で嘔吐や下痢の症状が表れ、3滴目でインフルエンザのような症状が引き起こされた。
そして、4滴目で死に至るのだった。

この進行の遅さにより、男性たちは遺書を書いたり身辺整理をする時間が与えられた。
また、女性たちは「アクア・トファーナ」を使った後、男性の体調悪化に不安を示す芝居を打ち、医師に診察を依頼した。

医師はインフルエンザと診断し治療薬が処方されたが、実際には水面下で毒が進行し、数日から1週間以内に男性は死亡するのだった。

こうして女性たちは、完全犯罪を成し遂げたのである。

ジュリアは、毒薬「アクア・トファーナ」を販売するだけでなく、その使用方法や事後の対応についても女性たちに指導を行っていた。
毒薬で男性を殺害した後は、ヒステリックに泣き、自ら進んで検視官に検死を依頼するようにも指示していたのだ。

17世紀当時、女性が不審な行動をとればすぐに「魔女」として扱われることが多かった。とくに未亡人が魔女と疑われると、夫を「呪って殺した」と判断されかねなかったのである。

ジュリアは、それを避けるために細心の注意を払い、女性たちを指導していたのだった。

クライアントを慎重に選別するも大繁盛

画像 : 「アクア・トファーナ」を求める女性たちの身元調査をするジュリア イメージ 草の実堂作成

ジュリアは、「アクア・トファーナ」を販売する際、クライアントを慎重に選別していた。

身元調査を行い、信頼できる証言を集めることで、毒薬が適切に使用されるかどうかチェックしていたのである。

慎重にビジネスを進めていたにもかかわらず、支配的な男から逃れたい女性たちの間で口コミが広まり、「アクア・トファーナ」は瞬く間に人気商品となった。

時には男性客も訪れたが、ジュリアはカウンセリングを行い、「アクア・トファーナ」は必ず男性の食べ物や飲み物にのみ使用されることが決まっていた。

彼女の目的は、クライアントに危害を加えたり、財力や権力を使って支配する男性を排除することにあったからである。

ビジネスが繁盛するにつれ、ジュリアの周りには信頼できる女性たちが集まってきた。
未亡人や貧困女性、占い師、中絶医、助産婦、魔術師など、暴力的な男性に憎しみを抱く仲間が、毒薬の販売を手助けしたのである。

ジュリアの娘、ジローラマ・スペラもビジネスに加わり、販売網はシチリアのパレルモから、ナポリ、ローマへと拡大していった。

若い妻の良心により、18年間の犯行が明るみに

画像 : 毒薬入りスープを飲もうとする夫を止める妻 イメージ 草の実堂作成

ジュリア・トファーナの活動は18年間、秘密裏に進められ、多大な利益を生んでいたが、1659年についに崩壊の危機を迎える。

あるクライアント女性が「アクア・トファーナ」を夫のスープに混ぜたが、直前になって恐怖に駆られ、夫に飲むのを止めるよう叫んでしまったのである。

夫は、妻の異様な態度に疑念を抱き、暴力とともに彼女を問い詰め、ジュリアの毒を使ったことを白状させた。
そしてすぐに妻を警察に引き渡し、拷問の末、彼女はすべての情報を明かしたのだった。

危機を察知したジュリアは、すぐに荷物をまとめて教会に逃げ込んだ。

教会で一時的に保護されたが、街では「ジュリアが市の水道に毒を入れた」という噂が広がり、政府が捜査に乗り出したため、教会は彼女を当局に引き渡さざるを得なくなった。

ジュリアは逮捕されて激しい拷問を受け、18年間で600人以上の男性を毒殺したことを自白した。

ひとりのクライアントの良心が、多くの男性の命を救い、ジュリア・トファーナの長年にわたる毒殺活動を終わらせた瞬間だった。

しかしそれは、18年間もの長い期間、封建的社会に復讐を誓った多くの女性たちによって、ジュリアと毒薬「アクア・トファーナ」の存在が、堅く守られてきた証拠でもあった。

ジュリアとイタリア女性たちが迎えた、それぞれの最期

画像 : ジュリアが処刑されたというカンポ・デ・フィオーリ広場  public domain

ジュリアの最期にはさまざまな説があるが、有力なのは、1659年7月、娘ジローラマと仲間3人とともに、ローマのカンポ・デ・フィオーリ広場で処刑されたというものである。

「アクア・トファーナ」を使用したことが明らかになった数十人の下層階級の女性たちも処刑され、上流階級の女性たちは投獄や追放に処された。

クライアントの多くは、「『アクア・トファーナ』が毒薬であることを知らなかった」と主張し、責任を回避しようとした。

警察は、誰が単なる化粧品として購入し、誰が殺人を計画していたのかを見極めるのに、非常に苦労したという。

毒薬「アクア・トファーナ」は、ジュリアの死後も市場に出回り、その影響は130年以上続いたとされる。

さいごに

ジュリアは、暴力的な男性600人を間接的に毒殺した一方で、多くの女性たちを奴隷のような状態から解放した。

クライアントたちはジュリアに感謝しており、彼女が捕まることを望んでいなかったという。

2021年、ベストセラー作家デボラ・スウィフトは、ジュリアの人生を題材にした歴史小説『The Poison Keeper』を発表した。

彼女はウェブサイト『ASPECTS OF HISTORY』にて、次のように語っている。

「当時、社会秩序に異議を唱えた女性に対する罰は厳しく、毒殺の疑いのある女性は拷問(焼殺、圧迫、溺死)による処刑が一般的だった。

しかし、私がこの小説で強調したかったのは、女性たちは決して無力ではなく、コミュニティや姉妹愛に支えられ、個人では達成できないことを成し遂げたということだ。」

参考 :
The Poison Keeper』デボラ・スウィフト(著)
A Poisoner’s Tale』キャスリン・ケンプ(著)
GIULIA TOFANA, THE ITALIAN SERIAL POISONER WHO BECAME A LEGEND | SYFY

 

藤城奈々 (編集者)

藤城奈々 (編集者)

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ライター・構成作家・編集者
心理、人間関係のメカニズム、スピリチュアル、宇宙
日本脚本家連盟会員

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