「密着型ブルマー」とよばれる体にぴったりフィットするブルマーは、1960年代半ばから全国の小学校・中学校・高等学校で使用され、1990年代に姿を消した女子の体操服です。
このブルマーは下着同然のデザインで、足の付け根まで露わになる上に、ちょっと油断するとブルマーの下のパンツがはみ出してしまい「はみパン」という新語まで生み出した代物でした。
当然女子生徒からは不評で、現在であればPTAが黙っていないであろう「密着型ブルマー」はなぜ普及し消滅したのか。
その真相に迫ってみたいと思います。
ブルマー普及の裏にあった「中体連とメーカーの癒着」
下着とほぼ同じデザインの「密着型ブルマー」(以下ブルマー)が、体操服として登場したのは1964年(昭和39年)頃からで、それまでは、ちょうちんブルマーやショートパンツが主流でした。
ブルマーが急速に普及したのは1966年(昭和41年)以降であり、特に中学校においては、5年間で50%、70年代前半を通して76%まで広がっています。
この不自然なほど急速な広まりの裏には、なんらかの組織的な力が働いているのではと考えたのが、社会学者の山本雄二氏です。
そして、山本氏が注目したのが、全国中学体育連盟と衣料メーカー・尾崎商事との関係でした。
1947年(昭和22年)以降、各都道府県に設立された中学校体育連盟の全国組織として、1955年(昭和30年)7月、全国中学体育連盟(以下、中体連)は誕生しました。
中体連は、体育関連設備や道具の配給と「民主主義教育としてのスポーツ」を各学校に普及させることを目的とした組織で、設立当初は少額の会費で運営されていたのですが、1964年(昭和39年)の東京オリンピック後、全国大会を主催する機会が多くなり、資金難に見舞われてしまいます。
そして、資金獲得のためにひねり出したのが、「中体振方式」でした。
「中体振方式」とは、中体連が設立した任意団体「中学校体育振興会(中体振)」の「推薦」マークの使用権を、衣料メーカーの尾崎商事に独占的に与え、その見返りとして尾崎商事から売り上げの一部を支援金として中体連が受け取るというものです。
販売実績による支援額は、中体振の推薦マークを付けた製品1点につき10円で設定され、製品が売れれば売れるほど、支援金の額が大きくなります。
多額の支援金を得るためには中体振のお墨付き商品を普及させ、従来とは異なる体操服への総入れ替えを全国的に展開する必要がありました。
そこで、ちょうちんブルマーやショートパンツに代わる新しい体操服として採用されたのが、「密着型ブルマー」だったのです。ブルマーは、尾崎商事の主力商品の一つでした。
この方式は関係者の予想以上に成功をおさめ、中体連は多額の資金を得ることができました。また尾崎商事も中体振方式に協力した1966年(昭和41年)以降、体育衣料と学生服が事業の二本柱となり、飛躍的に業績を向上させています。
この1966年がブルマー普及元年となることから、「中体振方式」がブルマーを全国展開せしめた原動力であると山本氏は指摘しているのです。
女子生徒たちの抵抗
ブルマーが登場したのは、1964年に行われた東京オリンピック後です。
女性アスリートの、健康的で美しい身体がオリンピックで社会に周知されたのを機に、女性の肉体美に対する日本人の価値観が変わったとはいえ、アスリートのようでかっこいいと好意的にブルマーを受け入れる女子生徒は少数で、大半が嫌悪感をもっていました。
その理由は、「下着同然のデザイン」で「付け根から脚がまる出しになること」や「ボディラインがはっきりと見えてしまうことへの羞恥心」、「生理中であることがわかってしまうこと」などでした。
ブルマーは学校側が受け入れても、実際に着用する側としてはすんなり受け入れられる代物ではなかったのです。
中には、ブルマーや太ももを隠そうとサイズの大きな上着を着用したり、脚を大きく開くハードルなどの競技を嫌がったり、下着が見えるのを心配して動きたがらなかったりといった行動で、拒否感や嫌悪感を示す生徒もいました。
また、そうしたささやかな抵抗を示すだけでなく、正々堂々とブルマー反対の声を上げる女子生徒も現われました。
1988年、愛知県立名古屋西高校で女子生徒がブルマー着用の義務付けに反対し、署名活動を行っています。
そうした反発に対する学校の対応はというと、
「学校側は全員で服装を統一し、集団の美を表出することを主張した。さらに、体育や体育教師がもつ生徒の管理・指導という役割のために、機能性を重視して学校指定の体操服からブルマーをはずすことに疑問をはさまなかった。」
『ブルマーの社会史: 女子体育へのまなざし』第5章スケープゴートとしてのブルマー 角田聡美
勇気ある声は、学校側には届きませんでした。
しかしその後、1993年に起きたシンガポール日本人学校中等部の生徒による異議申し立てを契機に、世間のブルマーへの意識が変わり始めます。
シンガポール日本人学校では、体育の服装はショートパンツ、キュロット、ブルマーから生徒が好きなものを選択していましたが、新任の体育教師がブルマーに統一することを提案し、ブルマー以外は規則違反とされてしまいます。
選択の自由を奪われたブルマーを嫌悪する女子生徒たちは反対の声を上げ、それが11月22日付の『朝日新聞』に掲載されると、ブルマーを強要する学校側に批判的な投書が続々と寄せられたのです。
朝日に続いて他紙もブルマー問題を取り上げると、日本各地でブルマー反対運動はさらに加速。
1994年には、体育教師から「ブルマー非着用は減点対象となる」と言われた女子高生が、市民オンブズマンへ相談し、オンブズマンから高校への改善要求が出されました。
また、愛知県立稲沢東高校では生徒会がブルマー改善を強く求め、栃木県の作新学院中等部の女子生徒は、社会見学で宇都宮裁判所を訪れた際、裁判官に「履きたくもないブルマーを強要されるのは人権問題ではないか」と質問をしています。
ブルマー消滅に追い打ちをかけた「セクハラの浸透」と「ブルセラ・ブーム」
ブルマー反対運動とともに、ブルマー消滅へのきっかけとなったのが「セクハラ」の概念の浸透と「ブルセラ・ブーム」の存在です。
1989年、福岡の出版社で働いていた女子社員が、上司のセクハラを理由に民事裁判を起こしたことをきっかけに、セクハラという概念が日本社会に浸透していきました。
ちなみに「セクシャル・ハラスメント」は1989年の流行語大賞になっています。
また、ブルマー消滅へ追い打ちをかけたのが1993年(平成5年)のブルセラ・ブームです。
使用済みの制服とブルマーがお金になることから、学校内でブルマー姿の盗撮やブルマーの盗難といった事件が相次ぎ、ブルマーは女子の体操服から性的対象物として変化し、問題視されるようになります。
こうしたブルマーに対する世間の認識の変化によって、学校側も改善へと動き始め、ほとんどの学校がショートパンツへと移行し、ブルマーは姿を消しました。
ブルマーを消滅へと導いた背景には、時代の流れだけでなく、学校側から拒否されようとも反対を訴えた女子生徒たちの声の存在がありました。
納得できないことや、理由も分からず踏襲されてきたことに対して声を上げ続けた当事者の希望に時代が味方し、変化につながったのかもしれません。
参考文献 :
・山本雄二『ブルマーの謎 〈女子の身体〉と戦後日本〉』青弓社
・高橋一郎ほか『ブルマーの社会史: 女子体育へのまなざし』青弓社
文 / 草の実堂編集部
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