神話、伝説

シューベルトの『魔王』 とは一体何者だったのか? その意外な正体とは

魔王

画像 : モーリッツ・フォン・シュヴィント作「魔王」 public domain

シューベルト作曲の『魔王』は、クラシック音楽の中でも特に印象的な作品だ。

日本語では「お父さん、お父さん!」というフレーズがよく知られているこのバラッド(物語を歌い上げる形式の曲)は、ピアノ演奏の難易度が非常に高いことでも知られている。

この曲は、偉大な詩人ゲーテの詩『魔王(エルケーニヒ)』に触発された18歳のシューベルトが、わずか一日で書き上げた楽曲である。

歌の概要は以下となっている。

高熱を出した息子を抱え、父親は夜道を馬で急いで医者のもとへ向かっている。

道中、息子は「魔王が見える」と怯えながら訴えるが、父親には魔王の姿が見えず、「あれは霧だ」となだめる。息子のうなされる声は次第に甲高くなり、魔王が甘い言葉で誘い出そうとする。さらに息子が「魔王の声が聞こえないの?」と叫ぶと、父親は「あれはただの枯葉の音だ」と必死になだめ続ける。

しかし魔王の囁きは止まず、息子は次第に追い詰められていく。父親がようやく医者の館にたどり着いたとき、息子はすでに父親の腕の中で息絶えていた。

この「魔王」とは一体何者なのか。今回はその謎に迫り、知られざる魔王の正体を解き明かしていこう。

画像 : フランツ・シューベルト 1797~1828 public domain

ゲーテの魔王

画像 : ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 1749~1832 public domain

ゲーテは、ドイツを代表する詩人であり、生涯にわたって多くの詩・小説・戯曲の傑作を生み出した。

『魔王』の原型である詩『エルケーニヒ』もその一つである。(この詩はシューベルト以外にも、様々な作曲家により曲を付けられている)

馬を駆る父と傍らにいる息子。そこへ邪悪な「エルケーニヒ」が現れ、息子をあの世へ連れていくというのが、主なストーリーだ。

エルケーニヒとはドイツ語で「ハンノキの王」という意味である。
ハンノキとはカバノキ科ハンノキ属の植物であり、日本でも馴染みの深い樹木だ。
ヨーロッパではクロハンノキという種のハンノキが、いたる所に自生している。

では魔王の正体は、植物生命体の首領ということなのだろうか?

答えは、当たらずしも遠からずといったところである。

画像 : ハンノキの王のイメージ 草の実堂作成

「エルケーニヒ」には、二つの元ネタがあるといわれている。

一つはゲーテの目撃談である。

ある夜、農夫が病気の息子を馬に乗せて医者の元へと急ぐ場面を目撃し、その光景から着想を得てアイディアを膨らませたというものだ。

もう一つは、スカンジナビア地方に古くから伝わる「Elveskud」という伝説だ。
Elveskudはデンマーク語で「妖精の一撃」といった意味合いの言葉になる。

この伝説は、馬に乗ったオールフという男が、森の中で妖精王の娘に呪いをかけられ、やがて死んでしまうといった内容である。
(地域によって多少内容にバラつきはある)
まさに、妖精に「一撃」をお見舞いされたというわけだ。

しかし、なぜ妖精王の娘が「ハンノキの王」に変化してしまったのだろうか。

そこにはゲーテと関わりの深い、とある人物の関与があったのである。

ヘルダーとゲーテの素晴らしき感性

画像 : ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー 1744~1803 public domain

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーは、ドイツを代表する哲学者・文学者であり、ゲーテの師匠で友人でもあった。

ヘルダーは翻訳家でもあり、世界各地の民謡を収集・翻訳した『ヘルダー民謡集』は、彼の代表作の一つである。

その民謡集に収録されている作品の一つに「ハンノキの王の娘」というものがある。
これは前述した「Elveskud」の伝説をデンマーク語からドイツ語に翻訳したものであり、ゲーテはこの作品からインスピレーションを受けて、エルケーニヒを書き上げたとされている。

しかし、原典において妖精王とされたものが、ヘルダーの翻訳ではハンノキの王になってしまっている。
それではハンノキは、一体どこから出てきたのだろうか?

一説によると、これはヘルダーの誤訳によるものだという。
デンマーク語で妖精を意味するelvと、ドイツ語でハンノキを意味するerleがよく似ているため間違えた、というものである。

しかし百戦錬磨の翻訳家であるヘルダーが、そんな間違いをするだろうか。
彼は翻訳家である前に、文筆家・表現者でもある。
実は誤訳ではなく、わざとそのように訳した「意訳」だったというのが、通説となっている。

elvは、日本ではエルフとして知られる妖精の一種族である。
ヨーロッパにおいてエルフは超自然的な存在であり、いわば大自然の擬人化であった。
「そこら中に生えているハンノキ一本一本にエルフが宿っているのだとすれば、それらを束ねる妖精王はハンノキの王で間違いないはずだ」と、ヘルダーは考えたのだ。

この「ハンノキの王」というフレーズはゲーテの琴線に触れ、彼の創作意欲を大いに刺激した。
そこから農夫と息子の話を織り込み、妖精の娘ではなくハンノキの王が直接襲ってくるというアレンジをほどこし、新たなる物語「エルケーニヒ」として再構築したのだ。

そして完成したエルケーニヒは、シューベルトにより作曲という形で更にアレンジされ、不屈の名作として今日まで語り継がれることとなる。

意訳が是か非かについては、議論の余地があるだろう。
しかし、ヘルダーの翻訳がなければ、魔王(エルケーニヒ)は誕生しなかったはずである。

ヘルダーとゲーテ、二人の天才の感性がガッチリと噛み合い生まれた奇跡。
そこへ、シューベルトが新たな息吹を吹き込み、『魔王』は生まれたのだ。

余談だが、ゲーテはシューベルトの魔王をあまり好きではなかったそうだ。しかし晩年、評価を改める発言もしているという。

参考 : 『ヘルダー民謡集』他
文 / 草の実堂編集部

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 【正体不明の怪異たち】姿は知られているが、何をするか分からない妖…
  2. 【娘と馬が夫婦になって父が激怒】東北地方に根ざした「オシラサマ信…
  3. 【古代から語り継がれる火の鳥伝説】フェニックス、波山、ヒザマの伝…
  4. 世界各地に伝わる「ゾンビ的怪物」の神話や伝承 ─ゾンビの原型はブ…
  5. 北大路魯山人 波乱の生涯「美味しんぼ海原雄山のモデル」幼少期にた…
  6. 『ブラジルの知られざる妖怪たち』ラテンの国の神話と伝説 ~ケンタ…
  7. 歴史上の天才達のIQを調べてみた 【アインシュタイン、ダヴィンチ…
  8. あなたは“ナートゥ”をご存知か? インド映画「RRR」で有名なN…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

祟り神について調べてみた【平将門、菅原道真、崇徳天皇】

「祟り神」と聞いて、どんな印象を受けるだろうか。名前の意味からイメージするのであれば、“祟りをなす怖…

野生動物との共生「環境治療、保存医学」とは何か? 第一人者の話を聞いてきた

令和6年(2024年)3月10日(日)、横浜市社会福祉センターホールで開催された第20回横浜市獣医師…

源頼朝の最後の直系男子「貞暁」 〜北条政子の魔の手から逃れるため左目を潰す

真言宗の聖地・高野山に住した僧侶真言密教の根本道場・高野山は、平安時代のはじめに弘法大師…

姫路城について調べてみた【白さの秘密に迫る】

2015年、約5年半もの期間を費やした「平成の大改修」が終わり、築城当時の白鷺(しらさぎ)の…

永世中立国の意外な側面・第二次世界大戦とスイス

多面的な スイススイスと言えば多くの方がアルプスの山々など、牧歌的で美しいヨーロッパの山…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(週間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP