背が高く、彫りの深い二重まぶたを持つ美貌で、「大正三美人」のひとりとして称された女性がいた。
彼女の名は、林きむ子。
富豪の代議士と結婚し、6人の子供を育てながらも複数の学校で学び、高い教養を身につけた。大正期には、女性の地位向上を目指して精力的に活動し、その存在は多くの人々の注目を集めた。
夫の死後、年下の詩人・林柳波との再婚で批判を浴びることもあったが、彼女は決して屈しなかった。
本稿では彼女がどのように逆境を乗り越え、自らの道を切り開いていったのか、その軌跡をたどっていきたい。
義太夫語りの両親の間に生まれ、9歳で料亭の養女となる
明治17年(1884)12月、林きむ子は東京・柳橋に生まれた。
父は狂言浄瑠璃の祖とされる初代・豊竹和国太夫、母は女義太夫の竹本素行という芸道の家に生まれたきむ子は、幼少期から三味線の音に囲まれて育ち、その音楽的感受性は自然と研ぎ澄まされていった。
しかし、芸道にいそしむ父母からは放っておかれていたという。そのため彼女は婆やに育てられた。
明治26年(1893年)9歳の時、きむ子は芝の料亭『浜の家』の女将・内田花の養女となる。
内田は、きむ子の美貌と鋭い感受性、そして聡明さを見込み、将来は料亭を継がせるつもりであった。きむ子は、琴や三味線、舞踊、茶の湯など、日本の伝統的な芸事を次々と習得していった。
また、浜の家には政界の黒幕とされる頭山満や、その弟分である杉山茂丸などが出入りし、政治的な談話が日常的に交わされていた。
12歳のきむ子は、杉山から和歌や和文の手ほどきを受け、その才能を磨いた。
明治30年代、浜の家は井上、伊藤、山縣などの要人が集う政略の場となった。
出入りする馬車や人力車の動きで政界の情勢がわかると言われ、新聞記者はこの料亭に出入りする商人を通じて情報を得ようとするほどであった。
10代で、実業家で代議士の夫と結婚
明治33年(1900年)、16歳のきむ子は、アメリカ帰りの富豪で政治的野心を持つ日向輝武(ひなた てるたけ)と出会った。
日向は友人との食事で浜の家を訪れた際、きむ子に一目惚れし、自身の海外での苦労や成功、ハワイでの事業の話を熱心に語った。
きむ子は恋愛感情を抱いていたわけではなかったが、日向の誠実さと紳士的な態度に好感を持ったという。
養母の反対など紆余曲折を経て、翌明治34年(1901年)、2人は結婚した。
その後、日向が総選挙に立候補して当選すると、きむ子は10代で実業家夫人・代議士夫人として社交界にデビューし、「サロンの女王」と称されるようになった。きむ子は洋服を着こなし、乗馬や自転車も楽しむなど、当時としては自由な生活を送った。
明治38年(1905年)頃、夫妻は赤坂の家から田端の丘の上に建てた大邸宅に移り住んだ。日向が冗談半分で蛇を飼い始めた時、最初は怖がっていたきむ子だったが、動物好きな性格からすぐに慣れた。
そんな彼女の姿を見た通信社の記者により、「蛇夫人」としてその名が日本中に広まった。さらに、「袖に蛇を包んでいる」「笛を吹くと蛇が寄ってくる」「香水の風呂に入っている」などの噂が広がり、次第に本当のことのように伝えられていった。
このようなジャーナリズムに、きむ子は憤りを感じていたという。
また、日常生活では姑との関係に悩むこともあった。それでも、6人の子供を育てながら、仏英和女学校、女子美術、神学校の3つの学校に通い、高い教養を身につけた。
さらに小説や歌集を出版するなど、精力的に創作活動も行っていた。
「女性解放」の活動と、夫の死
名実ともに上流婦人としての地位を確立した林きむ子は、大正2年(1913年)に『新真婦人会』に参加し、女性解放を掲げた雑誌『新真婦人』で寄稿活動を始めた。
これに先立つ明治44年(1911年)には、平塚らいてうが中心となって『青鞜社(せいとうしゃ)』が結成され、女性解放運動が活発化していた。
新真婦人会は、その活動がジャーナリズムにより『青鞜社』の対立勢力と見なされ、「新しい女の新しい敵」と位置づけられていた。
しかし、「恋愛なき結婚をなさるな」「婦人の人格を認めぬ男子とは結婚するな」といった新真婦人会の主張は、家庭生活を中心に生きる多くの女性たちから共感と支持を得ていた。
その後、夫の輝武の事業が徐々に行き詰まり、経営が傾き始めた。
家計を支えるため、きむ子は美容液『オロラ』を開発し、雑誌で大々的に宣伝を行って販売を開始。
『オロラ』は評判を呼び、多くの人々に知られるようになったという。
しかし、大正4年(1915年)、日向は政友会の汚職事件である「大浦事件」に巻き込まれ、収賄容疑で収監されることとなった。これにより彼の政治生命は絶たれ、その後、精神に異常をきたし入院した。
きむ子はこの困難にも屈せず、邸宅を手放しながらもエッセイ集『銀と藍』を出版し、原稿料で生計を立てた。
さらには一中節の師匠としても活動し、多方面で才能を発揮した。
しかし大正7年(1918年)、ついに夫の輝武はこの世を去り、きむ子は新たな試練を迎えることになった。
年下男性との再婚で批判をあびるも、その後、林流を創立する
夫・輝武の死から1年も経たない大正8年(1919年)、36歳のきむ子は、9歳年下の詩人で薬剤師の林柳波(はやし りゅうは)と再婚した。
輝武の看病に疲れたきむ子は、赤城山で一人の時間を過ごすことがあり、その際に宿泊した旅館で柳波と出会い、次第に彼に惹かれていったという。
この再婚は大正時代のスキャンダルとなり、多くの注目を集めた。
当時の社会では、未亡人は夫の死後も貞操を守り生涯再婚しないことが美徳とされていたため、非難の声も多かった。しかし、きむ子は結婚を「二人の愛情合意に基づくもの」とし、「私は断じて今をはじめての恋と呼ぼう」と自らの決意を表明した。
柳波との間に2人の子供をもうけたきむ子は、幼い頃から親しんだ日本舞踊で新たな道を歩むことを決意。
大正13年(1924年)、旧派を離れ新作舞踊の創作に専念し、林流を創立。『銀閃会』を主宰し、従来の男女の色事を主題とした舞踊から脱却し、女性の健康や精神修養を目的とした舞踊へと発想を転換した。
それだけでなく、古典を保存しながら童謡舞踊を振り付けし「新古典舞踊」と称して数百の創作をした。さらに「日本舞踊はお金がかかる」という概念に抗い、月謝を安くし質素を心掛けて、日本舞踊を理解してもらうために古典文学も教えた。
戦後には家元制度を廃止するなど、その発想は常に新しいものであった。
このように美貌と才能に恵まれ、行動力に満ちたきむ子であったが、戦争中から柳波との関係は冷え始めたという。
昭和20年(1945年)、五女が結核で亡くなったのとほぼ同時期に、柳波は別の女性との間に子供をもうけてしまった。
きむ子は「子どもには父親が必要です」と言い、柳波をその女性のもとへ行かせたが、正式な離婚には至らなかった。
その後、昭和41年(1966年)、きむ子はその功績が認められ、勲五等瑞宝章を受章。
そして翌年の昭和42年(1967年)2月、82歳でこの世を去った。
彼女の生涯は、母親として、女性として、舞踊家として、自らの道を貫き美しく生き抜いたものであった。
参考 :
森まゆみ「大正美人伝 林きむ子の生涯」文藝春秋
ポーラ文化研究所編「幕末維新・明治・大正 美人帖」愛蔵版 新人物往来社
文 / 草の実堂編集部
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