幕末明治

【日本初のポスター美人】明治の名妓「ぽん太」の夫を支え続けた生涯

明治時代、「西に大阪宗右衛門町の富田屋八千代、東に新橋のぽん太」と称されるほど人気を博した名妓がいた。

彼女の名は、鹿島ゑつ(かしま えつ ※芸名ぽん太)。

その才能と美しさで多くの人々を魅了した彼女は、やがて豪商の息子であり写真家でもあった鹿島清兵衛の目に留まり、後妻となった。

しかし、夫の清兵衛は道楽に溺れる生活を送り、ついには実家の鹿島家を追われることとなる。

そこから始まる苦難の日々の中でも、ぽん太は献身的に夫を支え、その姿勢から「貞女の鑑」として称賛された。

本稿では、名妓としての華やかな時代から、夫婦としての苦難の歩み、そしてその献身的な生涯に至るまで、ぽん太(鹿島ゑつ)の人生を振り返る。

日本初の『ポスター美人』となる

画像 : 新橋「玉の家」半玉のぽん太 public domain

明治13年(1880年)、ぽん太(本名・谷田恵津)は、東京品川遊里で生まれた。

彼女は新橋にある『玉の家』の女主人の妹で、12歳の時に『玉の家』から半玉(見習い芸者)として初お披露目された。その才能と美貌は瞬く間に評判を呼び、「西に大阪宗右衛門町の富田屋八千代、東に新橋のぽん太」と称される名妓となった。

披露目から3年後、ぽん太はビール会社のポスターのモデルに起用される。
この依頼をしたのが、写真家であり豪商の息子であった鹿島清兵衛だった。

彼女がモデルとなったポスターは瞬く間に評判を呼び、ぽん太は「日本初のポスター美人」として全国的な名声を得た。

画像 : ぽん太。鹿島清兵衛撮影 public domain

清兵衛はぽん太より14歳年上で、大阪の造り酒屋・鹿島屋の家に生まれた。

4歳の時に東京の同族である鹿島屋の養子となり、家業を継ぐことを期待されて育った。やがて新川の鹿島屋の跡取り娘・乃婦と結婚し、8代目鹿島清兵衛を襲名する。
乃婦との間には1男3女が生まれたが、長男を早くに失い、清兵衛の心は次第に道楽へと向かうようになった。

彼はまず漆絵や蒔絵の工芸に没頭し、その技術を磨くために名人を常雇いにしてまで習得を重ね、作品を無償で配るほどの熱中ぶりを見せた。

その後、家に保管されていた古い湿板写真機を発見すると、浅草の写真屋である松林堂で技術を学び、さらに帝大工科の教授から最新技術を習得。外国製の高価な機材やレンズ、印画紙に惜しみなく資金を投じ、写真家としての道を進んだ。

明治23年(1890年)の内国博覧会では、能楽師梅若万三郎の『鶴亀』を等身大で撮影した作品や、約1.8メートル×約2.7メートルの富士山の風景写真を出品し、宮内省に献上するなどその豪奢な活動が話題を呼んだ。

こうした派手な暮らしぶりから、清兵衛は「鹿島大尽」「明治紀文」などと呼ばれるようになった。

豪商の息子から熱愛され、落籍される

画像 : 柏原から望む富士山。鹿嶋清兵衛撮影。1890年代 public domain

ビール会社のポスター撮影をきっかけに、鹿島清兵衛はぽん太を熱愛するようになった。

明治28年(1895年)、清兵衛は東京木挽町に写真館『玄鹿館』を開業する。
表向きの館主は弟の清三郎とされていたが、実質的には清兵衛が運営を指揮していた。

『玄鹿館』は洋風の2階建てで、当時としては珍しいエレベーターを備え、写場にはまわり舞台を設置するなど、豪華な設備を誇った。従業員は約50人を抱え、外国人客への対応のため通訳も雇用していた。
また、夜間撮影を可能にする2500燭光の電光を導入するなど、最新技術を取り入れていたという。

清兵衛の豪奢ぶりは、これにとどまらなかった。

弟の清三郎を写真技術の習得のためロンドンへ留学させる一方で、日清戦争の凱旋を祝う写真学会の会長・徳川篤敬侯のために、列車1両を丸ごと買い取って座敷列車に改造。ぽん太や他の芸者たち、板前らを伴い、盛大な宴会を催しながら京都へ向かった。

列車内ではかくし芸が披露され、賑やかな様子が続く中で、ぽん太は終始つつましい態度を保ち、清兵衛に寄り添って酌をしていたという。
これは清兵衛が「お前は笑顔が良くないから笑うな」と言い渡したためであり、以後、ぽん太はささやかな微笑みにとどめるようになった。

このエピソードを受け、劇作家・長谷川時雨は『近代美人伝』でぽん太を「笑顔を封じられた女」と記している。

清兵衛はぽん太に対する執着が強く、外国人が彼女に目をつけていると聞くや否や、築地の別荘に移して住まわせた。
一方で、清兵衛と正妻・乃婦との夫婦仲は冷え切り、乃婦は子供たちを連れて親戚の家に身を寄せることとなった。

最終的に清兵衛は新川の実家を捨て、ぽん太を正式に落籍し、築地の別荘で新たな生活を始めたのであった。

静かに夫に仕える元名妓の妻

明治29年(1896年)7月、鹿島清兵衛は向島寺島村の北川楼で『百物語』の会を催した。

これは、当時の『歌舞伎新報』の主筆・岡野紫水が発案したもので、清兵衛の写真館『玄鹿館』との共催によるものであった。
百物語は納涼お化け大会のような催しで、清兵衛はその莫大な費用を負担したという。

当日は100人以上が集まり、来賓の中には森鴎外(もり おうがい)も名を連ねていた。

画像 : 森鴎外(もり おうがい) public domain

森鴎外の目に映った鹿島夫妻の姿は、独特なものであったという。

会の喧騒から少し離れた場所で清兵衛は静かにその様子を見守っており、隣にはまだ10代だったぽん太がいた。彼女は薄鼠色の地味な服装に身を包み、控えめで目立たないよう努めていたという。

森はこの夫妻の姿を「病人とその看護婦」に例え、後に鹿島夫妻をモデルにした小説『百物語』を著している。

翌年の明治30年(1897年)2月、孝明天皇妃英照皇太后の御大葬が行われ、清兵衛は陸軍参謀本部の依頼で夜間葬列の模様を撮影することとなった。京都御所の近くに約9メートル間隔で15の櫓を設け、スイッチで同時に発光させるという画期的な技術を駆使して撮影を行ったのだ。

この写真は世界初の技術とされ、外国の写真家たちを驚嘆させた。

しかし、清兵衛はその後も家業に戻ることなく道楽を続け、最終的に鹿島屋から離縁されてしまう。
この時期、ぽん太は清兵衛との間に長女を出産した。

道楽に明け暮れていた清兵衛は築地の豪邸を処分し、写真館『玄鹿館』も閉鎖。一家は京都へと移住し、そこで小規模な写真館を再開。新たな生活を始めることとなった。

『貞女の鑑』

写真の勉強のためにロンドンへ留学していた清兵衛の弟、清三郎が帰国した際、京都の『玄鹿館』を訪れると、赤ん坊を背負いながら家事に勤しむぽん太の姿を目にした。

清三郎は夫妻の苦労を察し、親族に働きかけて東京の鹿島屋から清兵衛のもとへ月々の仕送りが届くよう手配した。
これにより生活は一息つき、夫妻は大阪に移住した後、明治36年(1903年)に再び東京へ戻る。

彼らは本郷に小さな写真館『春木館』を開き、生活の再建を図った。

『春木館』では昔世話をした芸人たちが訪れるようになり、清兵衛は本郷座の照明係を務めるようになった。ぽん太は子供たちの世話や家事に加え、夫の仕事を支えながら多忙な日々を送った。

その献身ぶりから、彼女は「貞女の鑑」と称されるようになった。

画像 : ぽん太の写真 斎藤茂吉 著『不断経 : 随筆』牡丹書房,昭和22. 国立国会図書館デジタルコレクション

しかし、苦難は続く。明治43年(1910年)、清兵衛が新派の芝居『高野の義人』で火事の場面の舞台効果を担当した際、火薬の調合中に事故が発生し、左手の親指を失ってしまったのだ。しかし器用だった清兵衛は、この障害を乗り越え、能管を吹く技術を独自に工夫して習得し、「三樹如月」と名乗り笛師として活動を続けた。

ぽん太もまた、家計を支えるために寄席の高座で踊りを披露し、近隣の子どもたちに長唄や踊りを教えることで生計を立てた。かつて名妓として名を馳せた彼女の舞台姿を見に訪れる客も少なくなかったが、その中には「貞女の鑑の舞台を娘に見せたい」と言って訪れる親子もいた。

清兵衛の収入が限られる中、家計はぽん太の収入によって支えられた。

大正13年(1924年)8月、清兵衛は体調不良を押して舞台の笛方を務めていたが、その後容態が悪化し、この世を去った。

清兵衛が亡くなった後、本家の番頭が一門の名代として焼香に来たが、番頭は「お子さん方の養育料は今後、お送りすることになりましたが、あなた様のことは知りません」と伝えて帰っていった。今まで清兵衛を支え続けてきたぽん太にとって、本家のこの仕打ちは相当こたえたという。

その翌年、大正14年(1925)4月、ぽん太も黄疸がもとで44歳でこの世を去ったのだった。

その生涯で12人の子をもうけ、幼くして亡くなった2人と養女に出した2人を除き、8人の子を立派に育て上げた。

清兵衛の死からわずか8ヶ月後に後を追うように亡くなったぽん太は、糟糠の妻として最期をまっとうしたのであった。

参考 :
千谷道雄「明治を彩る女たち」1985 文藝春秋
戸坂康二「ぜいたく列伝」1992 文藝春秋
文 / 草の実堂編集部

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