「サロン」と聞くと、上流階級の人々が優雅に集まり、お喋りを楽しむ場を想像するかもしれません。
しかし、歴史を調べてみると、サロンは単なる社交の場にとどまらず、文化や政治に大きな影響を与える重要な場でもありました。
本記事では、フランスを中心にサロン文化がどのように花開き、歴史に刻まれたのかをご紹介します。
摂政時代と女性による文芸開花
1715年9月1日、フランスの繁栄を築いた「太陽王」ルイ14世が、77歳の誕生日を目前にして崩御しました。
この時、王室に遺された直系の世継ぎは、わずか5歳のルイ15世だけでした。
そのため、ルイ14世の甥にあたるフィリップ2世(フィリップ・ドルレアン)が摂政に任命され、政治の舵取りを行うこととなります。
フィリップ2世は風変わりな人物として知られ、自らの無信仰を公言して周囲を驚かせることを楽しむような、シニカルな一面を持っていました。また、自分を中心に人々が集まる宮廷生活を嫌い、一時期、ヴェルサイユ宮殿から宮廷をパリに移しました。
このような行動が貴族社会に変化をもたらし、宮廷中心の交流から、貴族たちがそれぞれ独自に「社交界」を築く文化が生まれていきました。
一方、この時代の退廃的な空気感は、逆説的に人々の知的な欲求を刺激する要因ともなりました。芸術や文学といった真面目な活動に没頭したいという願望が芽生えたのです。
しかし、男性貴族たちは絶対主義の強化によって次第に無気力化し、社会の活力の一部を失っていました。
こうした中で、フィリップ2世がもたらした自由な風潮が、女性たちを感化させたのです。
当時、女性は法的には一人前とみなされず、父親や夫の後見下に置かれる存在でした。
ところが貴族の教育熱によって高い知性と教養を得た女性たちは、いつの間にか精神的な優位を得るようになり、優れたサロンの担い手となっていったのです。
「女王蜂」メーヌ公爵夫人のサロン
18世紀初頭、ソー城でメーヌ公爵夫人が開いたサロンは、フランスにおける初期のサロン文化の象徴とされています。
メーヌ公爵夫人ことルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボンは、ルイ14世と公妾モンステバン夫人の間に生まれたメーヌ伯ルイ・オーギュストの妻であり、右手の不自由を抱えながらも才気あふれる人物でした。
彼女は「女王蜂」と呼ばれるほど勝気な性格で、かつてはヴェルサイユの宮廷に対抗するかのように、自らを中心とした「小宮廷」を築き上げました。しかし、野心が災いして宮廷内での立場を失い、ソー城に隠遁することを余儀なくされます。
孤独を埋めるため、彼女は文人たちを招き入れ、その活動を援助することを思いつきました。
当時、多くの文人は安定した財産を持たず、ブルジョワ層や貴族の支援を受けて創作活動を続けていました。そのため、メーヌ公爵夫人の招待を受け、多くの才能ある文人が自然とソー城に集うようになったのです。
その中には、政治思想家モンテスキューや、啓蒙思想家ヴォルテールといった著名な人物も含まれていました。
しかしながら、この時期のメーヌ公爵夫人のサロンは、彼女の身分の高さが影響していたこともあり、文人たちはまだ主従関係の枠を超えることができませんでした。
彼女が文人を下僕のように扱う姿勢が残っていたため、後のサロンに見られるような知的で文化的な生産性は、まだ十分には育まれていなかったのです。
現代と同じ?サロンの盛り上がりは主宰者の魅力次第
メーヌ公爵夫人と同じ時代、ランベール侯夫人が開いたサロンも高い人気を誇りました。
ランベール侯夫人は、夫の死後にマザラン館(後のフランス学士院)を拠点とし、多くの一流著名人たちを招き入れました。
彼らが互いに実りある議論や交流を行えるよう、彼女は巧みに采配し、その知的で洗練された魅力と節度ある気配りによって、サロンの名声はますます高まっていきます。
詩人、画家、作曲家、聖職者など、多彩な才能を持つ人々がランベール侯夫人のもとに集まり、豊かな交流の場が生まれたのです。
やがてランベール侯夫人が亡くなると、彼女のサロンの常連たちは、フィリップ2世の愛妾であるタンサン夫人のサロンへと流れ込みました。
タンサン夫人のサロンはランベール侯夫人のものよりもさらに政治色が強く、深い議論が行われる場として知られるようになります。
ここでモンテスキューは、後にフランス革命の思想的基盤となる自由主義の理念を育みます。
代表作である『法の精神』は、このサロンで書き上げられたものであり、タンサン夫人の深い理解と支援によって、広く世に知られるようになりました。
このように、当時のサロン文化の盛り上がりは、主宰者の個性や魅力に大きく依存していたのです。
ロシア女帝も惹きつけた、ジョフラン夫人のサロン
タンサン夫人の死後、そのサロンでの知的交流の役割は、客人の一人だったジョフラン夫人のサロンに引き継がれました。
ブルジョワ階級出身のジョフラン夫人ことマリー=テレーズ・ロデは、貴族の女性ですら及ばないほどの高い教育を受けた女性でした。
彼女は幼くして両親を亡くし、理性的な判断を重んじる祖母に育てられました。祖母から本を読む習慣を厳しく躾けられた結果、ジョフラン夫人は若くして豊かな知性を培います。
14歳で将校ジョフランの妻となった彼女は、夫が本を読まないことに驚き、失望したといいます。
しかし、この知的好奇心は、やがて彼女をフランス国内外で知られるサロンの主宰者へと導くことになります。
ジョフラン夫人の知的な評判は瞬く間に広まり、フランス国内に留まらず諸外国にもその名声が響きました。
42歳の時に開いたサロンは、当時の一流の知識人や芸術家が集う場となり、その影響力は計り知れないものでした。
彼女のサロンには、哲学者ヴォルテール、文学者グリム、科学者ベンジャミン・フランクリン、さらに幼い日のモーツァルトまでもが出入りしていたのです。
その影響力の大きさを示すエピソードの一つに、ロシア女帝エカテリーナとの交流があります。
女帝はジョフラン夫人との文通だけでは満足せず、彼女のサロンに自国の担当官を出席させるよう命じたのです。
また、後にポーランド国王となるスタニワフ・ポニャトフスキー伯は、ジョフラン夫人を深く敬愛し、自身の即位に際して彼女を招待するとともに、パリの彼女の邸宅を模した宿舎を用意して歓迎しました。
こうした影響力を持つジョフラン夫人のサロンは、多くの人々にとって知的な刺激を与える場であり、「パリと宮廷に影響力を持つすべての人物が集まる」と称賛されるほどの存在感を放っていました。
引き継がれる自由な精神
ジョフラン夫人の死後、彼女のサロンに出入りしていた若きジュリー・ド・レスピナス嬢が、新たな主宰者としてサロン文化を引き継ぐことになりました。
ジュリーはまだ若く、資金的な余裕がなかったため、彼女のサロンに集まっていた知識人たちが資金援助を行い、彼女を支えたのです。
この支援を受けて、彼女のサロンはさらに洗練されたものへと発展していきました。
こうして育まれた自由な精神や知的交流は、やがてフランス大革命にも大きな影響を及ぼしました。
当時、「一人前ではない」とされていた女性たちが主宰するサロンが、自由思想の育成に貢献し、フランスの政治と文化の形成に関与していたという事実は、歴史を考察する上で非常に興味深いものと言えるでしょう。
参考文献:『フランス革命の女たち』 池田理代子/著
文 / 草の実堂編集部
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