日本の自衛隊に「海兵隊」は存在しない。
しかし、沿岸警備隊を含めたアメリカ軍を構成する5軍では2番目に小さいながらも、その役割は非常に重要で、有事には必ず戦場に姿を見せる。
アメリカ軍海兵隊はどのような組織なのか調べてみた。
創設から太平洋戦争
※アメリカ海兵隊紋章
海兵隊は、海軍と同じく、海軍省(海軍長官)が監督する。規模が小さいということもあるが、海軍と海兵隊には密接な関係があった。海兵隊は海軍の艦船で艦内警備に務めるなど、連携した活動を行っているためだ。
そもそも、アメリカ海兵隊はアメリカ独立戦争中の1775年11月10日、大陸会議(イギリス本国に対するアメリカ各植民地代表による会議)によって設立された大陸海兵隊 (Continental Marines) を起源としている。大陸海兵隊が創設されたのは、本国のイギリス軍に海兵隊という組織があったからというだけの理由であり、大陸海兵隊という組織ならではの特徴は無かった。
大陸海兵隊は、当時の荒々しい水兵達の海上での反乱防止など、艦内秩序の維持を目的とする警備等を普段は行っており、戦闘にも参加したがあくまで陸海軍の助っ人的な立場におかれていた。現在でも海軍の艦内警備を行っているのはその名残りだ。
しかし、第二次世界大戦が勃発し、アメリカは、ヨーロッパ戦線と太平洋戦線の二方面で戦わなくてはならなくなる。陸軍は主にヨーロッパ戦線に展開するしかなく、太平洋戦線は海軍に任されたが、時には上陸作戦も必要であり、海兵隊の必要性が高まった。
このような経緯で、第二次世界大戦時の海兵隊は太平洋を転戦することとなる。水陸両用軍団として参加したガダルカナル島、タラワ環礁、サイパン島、ペリリューの戦いを始めとするマリアナ諸島、硫黄島、沖縄などにおける日本軍との激戦の経験は、現在のアメリカ海兵隊の基礎となり、敵前強行上陸などでの活躍は海兵隊の存続に貢献した。
※写真『硫黄島の星条旗』を元に作られた記念碑
1945年2月19日の硫黄島への敵前強行上陸では海兵隊創設以来最大の死亡者を出しながら制圧に成功している。
硫黄島擂鉢山に星条旗が立てられた日は、後日「アメリカ海兵隊記念日」に制定され、クリント・イーストウッド監督の映画『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』では、この戦いを日米双方の視点から描いている。
ベトナム戦争
※ダナンに上陸するアメリカ海兵隊
1950年の朝鮮戦争においても、海兵隊はその存在を強烈にアピールした。
韓国救援の先遣部隊として派遣され、釜山に追い詰められた国連軍の中において米軍の中核として困難な時期を支える。マッカーサー元帥の立案した仁川上陸作戦(クロマイト作戦)では遂に中核戦力として投入され、上陸後のソウル奪還にも一番乗りの一翼を担った。また、中華人民共和国の参戦によって総崩れとなった国連軍の殿(しんがり。)を務めたのも海兵隊である。
やがてベトナム戦争が勃発すると、1965年3月8日、当時のジョンソン大統領は、海兵隊3,500人を南ベトナムのダナンに上陸させた。ダナンに大規模な空軍基地を建設するのが目的である。ここから地上軍の派遣が始まり、戦争は一気に拡大することになる。
ベトナムの地で海兵隊は、現在では珍しくもない「しかし、画期的な」試みを始めた。
スナイパーの育成である。ベトナム戦争以前の狙撃は「部隊内で射撃の成績が良い兵士(マークスマン)」の役割とされていた。しかし、海兵隊は「専門職」としてのスナイパーを誕生させる。
海兵隊の「職人たち」は「狙って撃つ」だけではなく、隠密行動で目標に接近、観測や偵察を行うための高い隠密行動能力が要求された。また、砲兵の着弾観測員の役割も果たす必要性もあり、砲術についても高い知識を必要とする。さらにスナイパーが狙撃に専念できるように観測手(スポッター)とチームを組むようになったのも、現在では陸軍でも当たり前の光景だが、その重要性を見出し、通常の部隊から独立させて運用させたのは海兵隊だった。
※ジブチにて作戦中の狙撃兵チーム
最初にベトナムでこのような運用を行った結果、狙撃チームが作戦を行ったエリアでの米軍兵の狙撃による被害は1日20~30件から週に1、2件まで激減したとされる。この時期に策定した狙撃兵教育プログラムにおいて用いられた概念が、現在もアメリカ海兵隊の狙撃手の代名詞として残る”One shot, One kill(一撃必殺)“である。
「殴りこみ部隊」の現在
※アメリカ海兵隊のAV-8B
その後も、ベトナム戦争、グレナダ侵攻、湾岸戦争、イラク戦争など、米国の行った大規模な軍事行動では常に最前線に投入され、米海兵部隊は規模の違いはあるものの、全世界に展開されており、有事の際には世界中のどこにでも展開できる能力を保有している。
そのため歩兵だけではなく、戦車、水陸両用強襲車、攻撃用ヘリコプター、輸送用ヘリコプター、さらにはAV-8B ハリアー II戦闘機、F/A-18A-D ホーネット、大統領専用要人輸送ヘリコプター(マリーンワン用ヘリコプター)なども装備している。
ただし、空母や軍艦は有していないために戦闘機は海軍の空母に「間借り」させてもらう。ここにも海軍との関係があった。
本土の防衛が任務に含まれない海外での活動専門部隊であることから海兵隊は「殴り込み部隊」とも渾名され、「陸海空軍の全機能を備え、アメリカ軍が参加する主な戦いには最初に上陸・空挺作戦などの任務で前線に投入され、その自己完結性と高い機動性から脚光を浴びている緊急展開部隊」と認識されている。
公式の標語は、ラテン語の “Semper fidelis”。英語では Always faithful. 直訳すれば「常に忠誠を」となり、通常口語体では Semper Fi! (センパーファーイ)と言う。この標語は、紋章のスクロールにも記されている。
「一度海兵となったものは、常に海兵である」という意味のOnce a Marine, Always a Marine.といった標語もあり、「一度海兵隊に入隊したなら、除隊しようとも一生『海兵隊員としての誇り』を失わず、アメリカ国民の模範たれ」とされている。
こうした特殊な教育は、海兵隊ブートキャンプという志願者訓練所(カリフォルニア州サンディエゴ訓練所と、サウスカロライナ州パリス・アイランド訓練所の2か所が存在)に入所して受けることとなる。海兵隊の入隊教育期間は13週間となっており、4軍の中でも最も長く、苛烈な練兵を行う。期間中は入営者の個性を徹底的に否定し、団体の一員として活動させ、命令に対する服従を叩き込まれる。ついて来られない者は容赦なく民間社会に戻され、練兵訓練を修了した者のみが「海兵」と名乗ることを許されるのだ。
※パリス・アイランド訓練所
訓練所での入隊教育といえば、スタンリー・キューブリック監督のベトナム戦争を題材にした戦争『フルメタル・ジャケット(1987年)』のシーンがあまりにも有名だ。
ベトナム戦争時、アメリカ海兵隊に志願した青年たちは、サウスカロライナ州パリス・アイランドの海兵隊訓練キャンプでハートマン軍曹の厳しい教練を受ける。現在の海兵隊では考えられないが、劇中では徹底的な叱責と罵倒、殴る蹴るの体罰が加えられ続けるという、心身ともに過酷を極めるものだった。
その罵声の一部が、
「貴様ら雌豚どもが俺の訓練に生き残れたら―――各人が兵器となる。戦争に祈りを捧げる死の司祭だ 。その日まではウジ虫だ!地球上で最下等の生命体だ。貴様らは人間ではない。両生動物のクソをかき集めた値打ちしかない!貴様らは厳しい俺を嫌う。だが憎めば、それだけ学ぶ」
というものだが、このシーンが海兵隊の厳しさを世界に知らしめた。
最後に
冒頭に「自衛隊には海兵隊は存在しない」といった理由が分かっただろう。
専守防衛を掲げる日本では必要のない部隊だが、現在ではアメリカだけでなく、世界各国が海兵隊を組織し、陸上自衛隊でも離島奪還作戦を想定した上陸演習をアメリカ海兵隊と合同で行っている。
参考記事:アメリカ海兵隊
「アメリカの特殊部隊について調べてみた」
参考記事:大陸会議
「アメリカ合衆国独立の歴史について調べてみた」
参考記事:F/A-18A-D ホーネット・空母
「アメリカ海軍の原子力空母について調べてみた」
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