2000年まで存命
坂井三郎(さかいさぶろう)は、主に太平洋戦争初期に活躍した日本海軍の戦闘機パイロットです。
戦後に撃墜数64機と紹介されたこともありましたが、軍が公式に認めた数は28機で、坂井本人もその正確な数は把握していなかったと伝えられています。
坂井は自書「大空のサムライ」を1953年(昭和28年)に上梓し、これがベストセラーになったこともあり当時その名を知られる事となった人物です。
ただ様々な角度からの評価がありつつ、戦後を生き抜きましたが、実は2000年9月まで存命だったことはあまり知られていないと思われます。
晩年は、マツダのロードスターを愛車にしていたとも伝えられている坂井の生涯を調べて見ました。
中国大陸での初陣
坂井は1916年(大正5年)に佐賀県の農家に生まれ、当初は海軍の航空兵を目指しました。これに2回不合格となり、1933年(昭和8年)5月には一旦水兵として海軍に入りました。
1936年(昭和11年)5月には当時の海軍の中心であった戦艦榛名の主砲砲手となりましたが、そこから再度パイロットを目指し、1937年(昭和12年)3月に霞ヶ浦航空隊に入隊しました。
ここで座学に励んだ坂井は、首席となる成績を上げて希望の戦闘パイロットに選ばれるました。
坂井は、翌1938年10月に中国大陸における漢口空襲に加わり、これが戦闘機パイロットとしての初出撃となりました。
このとき坂井は九六式艦上戦闘機を駆って、中華民国の戦闘機を1機を撃墜しています。
重症を負うも帰還
その後坂井は台湾勤務を経て、1942年(昭和17年)4月に第25航空戦隊に転属されラバウル方面での任務に就きました。
既に1940年10月には新型の零式艦上戦闘機が配備され、坂井の搭乗機もこの「ゼロ戦」に変更されていました。
坂井は1942年(昭和17年)8月にガダルカナル方面での戦闘に参加し、僚機と共にアメリカのF4Fワイルドキャット戦闘機を撃墜しています。
このときに坂井はアメリカ軍のSBDドーントレス艦上爆撃機の編隊を発見、これをF4Fワイルドキャットと誤認して接近したことで、同機の後部に搭載された機銃掃射を受けました。
その弾丸の一部が坂井の右側頭部を捕え、重傷を負いながら約4時間にもわたる飛行を続けて、なんとかラバウルに生還したと伝えられています。
再度実戦に復帰
この負傷のため日本に戻された坂井は、横須賀の海軍病院で手当を受けたものの右目の視力をほとんど失い、左目の視力も大きく損なったとされています。左半身にも麻痺があり、何とか飛行教官として軍に留まりました。
この後、坂井は1943年(昭和18年)4月に長崎の大村航空隊に転属となり、その地でも教官を務めました。
翌1944年(昭和19年)4月になると、いよいよパイロットに窮していた日本軍の苦しい台所事情を受けて、坂井もパイロットとして横須賀海軍航空隊に呼ばれました。
同年6月に坂井は硫黄島方面への出撃を行い、右目がほとんど見えない状況にも関わらず、F6Fヘルキャット戦闘機を2機撃墜したとされています。
坂井三郎 最期の出撃と戦後
坂井は横須賀航空隊に所属していた1945年8月15日に敗戦を迎えることになりました。
しかし、ここで戦後の8月17日に「国際法上の対領空侵犯措置」という大義名分のもと、飛来したアメリカ軍の爆撃機B-32を迎撃しようと最期の出撃をしたと伝えられています。
戦後の坂井は、敗戦の責を感じて無言を貫く元軍人が多い中で、自身の経験を著作として出版するなどその行動を売名行為と見做す向きもあり、概ね軍関係者からは眉を顰められることが多かったようです。
その著作内での自身の武勇伝も、太平洋戦争初頭で未だ「ゼロ戦」がアメリカ軍に十分対抗できた比較的に恵まれた時期の産物である上、坂井自身の教官時代の不遜な態度も相まって、信憑性に疑問を投げかけられました。
また戦後、坂井はかつての部下が行っていた「ネズミ講」組織の広告塔となるなど、社会的に名誉な行為とは言い難い活動に手を染めたこともあり、自ら悪しきイメージを流布することになりました。
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